五月十七日 晴


 今日は、お屋敷で働いているメイドの人が一人、倒れてしまいました。着付け役の人だったんですけど、やっぱりあれって神経を擦り減らす役割なんでしょうね。私は、特に着るものにこだわりがありませんし、あまりそういうことに関するセンスも良くないみたいですから、着付け役の人が選んだ服や装飾品に文句を付けるようなことはしません。けど、他のお屋敷とかでは、着付け役の選んだ服や装飾品が気に入らないと殴ったり罵ったりする人が多いらしいんですよね。そういうところで働いている人は、私なんかを相手にしている人よりもずっと、神経を擦り減らすことになって大変なんだろうなぁって思いました。

 身分の高い人間は、自分の身の周りの世話をする人間を雇い、彼(女)らに全てやらせて自分では何もしないのが普通である。掃除や洗濯といった日常の仕事はもちろん、自分の着替えも人にやらせることが珍しくない。いや、むしろ、そういったことを自分でやらないのが身分の高い人間にとっては当然のことなのだ。
 ミレニアの場合、もちろん自分一人で着替えや洗濯、掃除などをやれる。だが、領主夫人となった時点で彼女の身の周りの世話をする為のメイドが何人か選ばれた。彼女たちの仕事を奪うことになるから、内心では面倒に思いつつも必要な時は彼女たちを呼んでやらせることになった。
 その習慣は、領主の座についてからも変わらない。ごみが落ちているのを見かけたら自分で拾わずに人を呼んで拾わせる、とか、朝起きても自分で着替えたりせずに着付け役が来るのを待っている、とか、煩わしいことも多いのだが、しかたがないからそうしているのだ。
 さて、ミレニアの着替えをする役は、全てのメイドが一日交代で持ちまわりでやることになっている。この仕事はかなり不幸な役割だと認識されているからだ。ミレニアの着替えは、基本的に一日三回。朝に夜着から普段着に、夕食後には普段着からメイド服へ、そして眠る前にメイド服から夜着へとそれぞれ着替える。時折、メイド服から普段着に着替え直すこともあるが、基本形はこれだ。
 ミレニアがメイド服を着るのは、地下で拷問を行う時である。普段着から着替える時はまだいいが、拷問を終え、夜着に着替える時はメイド服が返り血で濡れていることも多い。酷い時になると、メイド服ばかりか髪から足まで、べっとりと血に濡れていることすらある。そういう姿の人間の服を脱がせ、着替えさせるという行為がどれほど嫌なものかはいうまでもないだろう。そういう服を洗濯する羽目になった人間も、やっぱり不幸であるが。
 そして、ある意味ではそれ以上に気を遣うのが、朝の着替えだ。まず、そもそもミレニアは朝何時に起きるかが一定していない。夜何時に寝るかが不規則な上、眠っている時間がその時の気分や体調によってまちまちだからだ。一応、起床は八時、ということになっているが、実際にはその前後に二時間近いずれがある。
 眠っている所を起こされて不機嫌にならない人間というのは珍しい。そして、ミレニアの機嫌を損ねることと死とはほぼ同義だとされているこの屋敷で、彼女の不興を進んで買おうという人間など居ない。しかし、一方でミレニアは起床時間が遅れるのを嫌う性癖があり、好きなだけ眠らせておくというわけにもいかない。起こすのがあまりにも遅れると、何故起こさないのかと言われることになるのだ。自分で寝過ごしておいて文句を付けるというのもおかしな話だが、そんなことをミレニアに面と向かって言えるのはプラムぐらいだ。
 だから、朝ミレニアの寝室を訪ねて、まだ彼女が眠っていた時には、難しい選択を迫られることになる。時間通りに起こして眠りを妨げられたことによる不興を買うか、そのまま眠らせておいて起床時間が遅れたことによる不興を買うか。前者は感情的なもの、後者は理性的なものだから、結局はどちらが勝つか賭けるしかない。賭けるものは自分の身の安全、更には命だ。実際には、このことに関して罰を受けたり、ましてや命を奪われたという人間は居ないのだが……。
 では、起床時間ちょうどかやや遅いぐらいに行けばいいのか、というと、今度はミレニアが早起きしている場合がある。この場合は、口では何もいわれないものの、静かにベッドに腰かけて待っているミレニアの姿にはかなりのプレッシャーがある。人をいつまで待たせるつもりだ、などと、口に出して言われるわけではないが、無言のままプレッシャーを受けるよりはむしろ口に出して言われた方が気が楽かもしれない。一番いいのは、ミレニアが目覚めたタイミングで起こしに行くことなのだろうが、前後に大きくずれる彼女の起床時間ぴったりに起こしに行くなど、普通の人間に出来る芸当ではない。
 そういうわけで、ミレニアを朝起こし、着替えをさせるというのはかなり精神的に辛い仕事である。まぁ、それを言ったら、ミレニアと直接顔を合わせる仕事はすべて精神的に辛い仕事であるのだが。彼女の怒りを買ったものは例外なく地下の拷問部屋に連行され、長期に渡って拷問を受けて苦しんだ挙げ句に惨殺されるのだと、メイドたちは噂しあっているし、信じているのだから。では、実際に彼女の怒りをかって惨殺されたものは誰か、と聞かれると、答えられるものはほとんど居ないのだが。

 メイドの一人、ファナは緊張した表情で寝室の扉をノックした。今年で二十歳なる彼女は、二年前からこの屋敷で働いている。ミレニアよりも、この屋敷にきたのは早かったのだ。最初に見た時は、何だか暗そうな娘だな、ぐらいにしか思わなかったミレニアが、領主夫人になった時は随分と驚いたのを覚えている。だが、その後、彼女が領主になった時は驚かなかった。彼女の身にまとう雰囲気が、一変していたせいだ。年下で、自分よりも後輩に当たる少女に恭しく仕えなければならないことに、ファナは何の不満も持っていなかった。他のメイドたちと同じく、ファナはミレニアのことが怖いのだ。彼女の前に立ち、見つめられると、理屈ではなしに身体がすくむ。前領主の機嫌を損ねることも恐れてはいたが、ミレニアに対した時に感じる問答無用の圧力とは比較にもならない。彼は残酷な人間ではあったが喜怒哀楽の表現が分かりやすく、どう対応すればいいのか判断するのは容易だった。ミレニアはいつも表情を変えることはなく、声を荒らげる事もしない。だが、それだけに、怒っているのかどうかの判断がつけられない。内心では怒り狂っているのにそう見えないだけだとしたら……そんな時に発した何気ない一言が、自分の命を奪うかもしれない。いつ殺されるか分からないという恐怖に、他のメイドたちと同じく彼女も囚われていた。だから、初めてのミレニアの着替え当番ということで、非常に緊張しているのだ。
「……どうぞ」
「し、失礼、します」
 ノックに返事が返ってきたことで、僅かに安堵しながらファナは扉を開いた。だが、その安堵は長くは続かなかった。夜着姿でベッドに腰かけたまま、ミレニアは何かの報告書に目を落としていたのだ。
「も、申し訳ありません。遅くなりました」
 慌てて頭を下げるファナに、無言のままミレニアが立ち上がる。額に汗を浮かべ、ファナは衣装ダンスからミレニアの衣服を取り出した。何着も下げられた中から、黒系統のドレスを選び取る。他の色のドレスもあるのだが、衣装ダンスの中に入っているドレスの中ではその色が一番多いからだ。
 ミレニアの夜着を脱がせ、ドレスに着替えさせる。その作業をファナがする間、ミレニアは一言も発しない。ただ、黙って彼女に視線を向けているだけだ。緊張に震えそうになる指で懸命に服の紐を結び終え、ファナはミレニアの前に姿身を移動させた。
「い、いかがでしょう? とても、お似合いでございますが」
「……そう、ですか?」
 姿身を支えながら問いかけるファナに、わずかな間を挟んでミレニアがそう応じる。淡々とした言葉に、ひっと思わず悲鳴を上げかけてファナは慌てて飲み込んだ。ミレニアの前で悲鳴を上げてはいけない、彼女は怯える相手をいたぶるのが好きなのだから、と、メイドたちの間では言われている。
「お、お気に、召しませんか?」
「……別に。あなたがこれでいいと思うなら、それでいいのでしょう」
 視線をふっと逸らし、淡々とした口調でミレニアがそう言う。着替えた服に満足しているとは思えないその態度に、がちがちと歯を鳴らしながらファナは慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。す、すぐに、別の服を用意しますので……」
「……そう」
 短く答えてミレニアが視線をファナに戻す。まったくの無表情で、そこからミレニアの内心を読み取ることは難しい。動揺を出来るだけ表に出さないように努力しながら、ファナは衣装ダンスから別のドレスを取り出した。最初に着せたドレスと同じ黒系統のドレスだが、装飾が地味でシンプルな作りになったものだ。ミレニアの服を脱がせ、着せかえる。その作業の間、ずっとミレニアの視線を感じつづけている。胃の辺りに、針で刺されるような痛みが走った。
「こ、これでしたら、どうでしょうか……?」
「……また、黒なんですね」
「く、黒は、お嫌いでしたか……!?」
「……別に。ただ、いつも、黒い服ばかり選ぶんですよね。そんなに、私に似合いますか?」
 淡々と、静かにそう問いかけられ、ファナが顔を青ざめさせる。
「も、申し訳ありません。別の色を用意いたします……!」
「……そう、ですか」
 ミレニアの言葉に、僅かに溜め息のようなものが混じっていたような気がして、ファナはますます顔を青ざめさせた。衣装ダンスの中の服の大半は黒系統。他の色を選ぶとなると、選択枝は限られてくる。
(し、白かな、やっぱり。それとも赤? 水色……? ど、どうしよう、どの色を選べば……)
 どれを選べばミレニアに気にいってもらえるのか分からず、ファナが軽いパニックを起こす。キリキリと胃の辺りが痛んだ。最初は針で刺されるような軽い痛みだったが、徐々に大きくなっている。
「……まだ、決まらないんですか?」
「いっ、いえっ」
 背後からミレニアに声をかけられ、声がひっくりかえる。慌ててファナはその時手を触れていた赤いドレスを取り出した。
「こ、これなど、いかがでしょうか? お、お似合いだと、思うのですが……」
「血の色、ですか。目立たなくて、いいかもしれませんね」
 赤いドレスを見せ、そう問いかけるファナに、淡々とミレニアが応じる。実際には無表情のままだったのだが、ミレニアが小さく笑いを浮かべたような錯覚を覚え、ひっと思わず小さく悲鳴を上げてファナがあとずさる。どんっと背中がタンスに当たり、ファナは顔を真っ青にした。
「お許しをっ、領主様、どうぞお許しをっ。こ、殺さないで……っ!」
「……服を、早く決めてもらえますか? その服に、するんですか?」
「いっ、いえっ、もう少し、もう少しだけお待ちくださいっ」
(どうしよう、どうしよう。次に選ぶ服が気にいってもらえないと、私、殺されちゃう……!)
 全身をびっしょりと汗で濡らし、蒼白になってファナがタンスを覗き込む。キリキリと激しく胃が痛み、吐き気が込み上げてくる。懸命にそれをこらえ、ファナは清楚な印象の白いドレスとかわいらしい印象の水色のドレスの双方を手に取った。
「こ、この白の服は、いかがでしょうか? そ、それとも、こちらの水色の方がよろしいですか? どちらも、領主様によく似合うと思うのですが……」
「……ファナ」
「はっ、はいぃっ!?」
 静かに名前を呼ばれ、思わず声が裏返る。僅かに首を左右に振ると、ミレニアはまっすぐファナの顔を見つめた。
「私は、あなたの着せ替え人形ではないんですよ?」
「いっ、いえっ、そのようなことは、まったく考えてもおりませんっ!」
「そう。……もう、この服でかまいません。さがっていいですよ」
「は、はい……」
 ミレニアの命令に、出したドレスを抱えてふらふらとおぼつかない足取りでファナが部屋から出ていく。彼女の頭の中は、恐怖と不安でいっぱいだった。
(どうしよう、領主様のこと、怒らせちゃった。殺される、絶対に、殺されちゃう……。
 ああっ、こんなことなら、去年の年期明けの時に家に帰っておけばよかった。でも、そんなことしたら、家族の生活が……。
 で、でも、私が殺されたら、家族はどうなるんだろう……? い、妹が、ここに来るのかな? そ、それで、やっぱり妹も殺されちゃうのかな……?
 殺されちゃう、みんな、殺されちゃうんだ。きっと、後で、呼ばれるんだ。それで、地下に連れていかれて、拷問されちゃうんだ。拷問されて、泣きわめいて、ゆっくりと時間をかけて嬲り殺しにされちゃうんだ。どうしよう、どうしよう……)
 ぐるぐると頭の中で不吉な想像が回る。噂に聞いた様々な拷問、この屋敷に来る前はよく見た罪人の処刑……それを受けている自分の姿を想像すると、全身が恐怖に震える。さっきから感じる胃の辺りの痛みはますます大きくなり、吐き気とめまいが激しくなる。
「ど、どうしたの、あなた? 顔が、真っ青よ?」
「殺されちゃう、殺されちゃうのよ……」
 前の方から歩いてきた別のメイドの、びっくりとしたような問いかけに、ファナが半ばうわごとのようにそう答えた。胃の辺りに激痛が走り、吐き気を覚える。胸から喉へと何か熱い物が駆け上がっていくような感じを覚えた次の瞬間、ごぼっとファナは口から鮮血の塊を吐き出した。甲高いメイドの悲鳴を聞きながら、ファナの意識は急速に闇に落ちていった……。
蛇足的説明:胃は強烈な酸を分泌することで消化を行うが、普段は自分自身を消化しないために粘膜を分泌し、胃壁を保護している。しかし、強いストレスを感じるとその分泌が止まり、胃液によって胃自身を消化してしまうことが有る。これが胃潰瘍と呼ばれるものだが、その出来る速度は非常に早く、僅か五秒程度で胃に穴が開くことも有り、時には洗面器一杯分ほどの吐血をみることも有る。
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