逃亡


「うっ……」
 まぶたごしに感じた光に、小さく呻いてマヤが目を開ける。拘束衣に包まれた上体を起こそうとした拍子に、グロテスクに変わり果てた自分の乳房を視界に入れてしまってマヤは唇を噛み締めた。どんな過酷な責めにも耐え、死ぬまで沈黙を守ろうと心に決めてはいても、彼女も女だ。自分の身体が醜く作り変えられた姿を見るのは精神的にかなり辛い。
 悔しげに唇を噛み締めたまま、マヤが視線を開かれた扉の方へと向けた。廊下から差し込む光で逆光になっているが、相手の正体はすぐに分かる。コーポの医師であり、自分の身体を改造した張本人、有栖川樹璃だ。いつもと同じ白衣姿の彼女は、傍らに運搬用のキャスター付きのベットを置いている。
「また、無駄なことをするつもり? 何回やっても、何をしても、無駄よ。私は、何もしゃべるつもりはないわ……」
 逆光になっているせいで表情のよく分からない相手の顔をにらみつけ、言い放つマヤ。小さく首を振ると、樹璃は室内に足を踏みいれながら静かな口調で口を開いた。
「お前をここから逃がしてやる」
「え……?」
「お前をここから逃がしてやる、と、そう言ったんだ。無論、お前の身体も元通りにした上で、だ」
 予想外の言葉に、目を丸くしたマヤへと淡々とした、しかしその中にも強い意思を感じさせる口調で樹璃がそう言う。警戒するような表情を浮かべ、僅かにマヤが身を引いた。
「どういうつもりなの? 私を解放して、仲間のところに案内でもさせるつもり?」
「そんなつもりはない。まぁ……何をいっても、信用してもらえないのは分かっている。今まで私がお前にしてきたことを考えれば、な。
 ただ、私はもうこれ以上、東城の奴のいいなりになるのはごめんなんだ。医師として、不本意な行動を何度も取らされているからな。私にも、プライドというものがある」
 小さく首を振りながら、真面目な表情で樹璃がそう言う。なおも信用しきれないような表情を浮かべて、マヤは相手の顔をじっと見つめた。
「いいの? そんなことを言っちゃって。東城に聞かれたら困るんじゃない?」
「確かに、ばれれば私の身も危ないな。とりあえず、この部屋とその周辺の監視機構は一時的に無力化してある。長くはごまかせないだろうから、あまり時間がないのも事実だがな。
 どうする? お前が嫌だというのなら、私としても無理にお前を連れ出すことは出来ない。私のことを信用してここから逃げ出すか、疑ってここに留まるか。どちらを選ぶのも、お前の自由だ」
「……急な話ね。何でいきなり、私を逃がそうだなんて考えたの? 私がこんな身体にされてから、二日ぐらいはたっているでしょ」
「お前の身体を改造することに関しては、もともと私は反対だった。任務だからしかたがない、と、そう思って手術をしたわけだが……それが、単なる東城の趣味によるものだということが判明したものでな。いいかげん、嫌気がさしたというわけだ」
 目を伏せてそう言う樹璃へと、マヤが怪訝そうな表情を浮かべる。
「そんなことは、最初から分かっていたんじゃないの? あの男は、私をいたぶって楽しんでいる。任務の名を借りて、趣味で拷問してるだけだって、見ればすぐに分かることじゃない」
「それが違ったんだ。私も、奴が任務に趣味を混ぜていることを苦々しく思ってはいた。だが……そもそも、任務なんかじゃなかったんだ。東城は今、書類の上では休暇中、ということになっている。
 三週間前、そう、お前が囚われた日から、奴は一ヶ月の休暇に入っているのさ。ついでに言えば、お前の尋問に関する記録は一切取られていない。虜囚としての登録も、お前が囚われた日のうちに抹消され、記録上では既にお前は死んだことになっている」
「なっ……!? どういうこと!?」
「私にも分からない。ただ、一つ確かなことは、東城がお前を拷問するのは任務ではなく単なる奴の趣味だということだ。そして、奴の趣味に私がつきあわねばならん義務はない。私はコーポの人間で、命令には服従する義務がある。だが、奴個人の部下ではないし、任務を離れて趣味に興じる奴に手を貸す必要はどこにもないんだ」
 樹璃の言葉を聞きながら、マヤはぐるぐると世界が回っているような感覚に襲われていた。何年もたったかのように感じられたこの三週間……ただひたすらに仲間たちのことを考え、拷問に耐えてきた日々。それは、単に東城の嗜好を満足させるためだけの日々であったのか。東城にとっては自分から情報を引き出す必要性などどこにもなく、単に自分をいたぶって楽しんでいただけなのか。そもそも、自分たちの組織など、コーポから見れば虫けらほどの小さな、無視してしまってかまわない程度のものでしかないのか。様々な問いが脳裏に浮かんでは答えを得られないまま消えていく。
(冷静に……冷静になるのよ、マヤ)
 混乱する頭を懸命に整理して、マヤが内心呟く。今第一に考えなければならないことは、樹璃の申し出を受けるかどうか、と言うことだ。
 断れば、どうなるか。今までと変わらない日々が続くことになるだろう。体力を回復するためのわずかな休息を挟み、拷問を受けつづける日々が。そして、最終的には、拷問に耐えきれずに全てを自白してしまうか、それとも死ぬかのどちらかの運命が待っている。もっとも、自白したところで生命を助けてもらえる筈もないから、結局は死を待つだけと言うことだが。
 受ければ、どうなるか。樹璃が『本当に』自分に味方してくれるつもりであれば、助かるかもしれない。ただ、この申し出が罠である可能性も、もちろんある。ここを脱出できたとして、自分が行く場所は仲間たちの所しかないのだから。尾行するなり、発振機を仕込んでおくなりしておいて、自分に仲間たちの居場所まで案内させるつもりかもしれない。
(ただ、東城の性格だと、それは考えにくい、かな……?)
 東城の性格だと、そういう策略を使っててっとりばやく任務を達成するよりも、時間がかかるとしても自分を痛めつけて屈服させることの方を選ぶのではないだろうか。もちろん、自分にそう思わせるための演技、という可能性も考えようと思えば考えられるが……。
(いつまで、考えて居てもしかたない、か……)
 どこかで思考を停止しなければ、行動には移れない。ここで樹璃の申し出を罠と考え、断ったところで事態は何も解決しない。自分を泳がせて仲間の居場所を突きとめる、という罠を張っている可能性も、東城の性格を考えれば考えにくい。あの性格は、おそらく演技などではないだろう。ならば、ここで賭けてみるのも悪くないかもしれない。
「……分かったわ。あなたのことを、信用する。連れていって」
「そう、か。では……」
 マヤの言葉に、ほっとしたような表情を浮かべて頷くと樹璃が台車を引いてマヤの横たわるベットに近づく。拘束衣のベルトを外し、代わりに手術の時に着るようなゆったりとした服をマヤに着せると樹璃はマヤの脇の下に手を差し込んで立ち上がらせた。足が半分なえているマヤがぐらりと身体をよろめかせるのを支えながら、樹璃はマヤを台車の上に横たわらせた。
「目を閉じて、黙って動かずに居てくれ。死体を搬出する、という名目で門を通過する。私の立場だとそれ程不自然な行動ではないし、今までにも何度かやっているからうまく行く筈だ」
「ええ。任せるわ」
 頭の上まで白い布をかけられながら、マヤは目を閉じた。

 明るいメインの通路から外れた、薄暗い通路。夜間ということもあってか当然ながら人通りなどなく、カツン、カツンと樹璃の足音だけがうつろに響く。マヤが囚われて居た地下の一室から機材搬入用のエレベーターを使って一階へ、そこから更に施設の裏手にある出入り口へと薄暗い無人に近いスペースを樹璃が一人でキャスターを押していく。途中、何度か職員とすれ違うこともあったが、いずれも樹璃の顔を見ただけで特に何かを問いかけようとはしなかった。
 いくつもの角を曲がり、施設の中と外とを繋ぐ分厚い金属製の壁がついに目の前に現れる。扉の横の壁に設置されたセキュリティパネルに右手を当てながら、樹璃がマイクに呼びかけた。
「医療部の有栖川樹璃だ。使用済みの死体を搬出したい。扉を開けてくれ」
『個体照合……クリア。ゲート・オープン』
 合成された非人間的な音声と共に、ガコンと重い音を立てて扉が左右に開く。ほっと僅かに息を吐いて、外へと樹璃が一歩を踏み出した途端、強烈な光が正面から彼女のことを照らし出した。
「うっ……!?」
「遅いじゃないか、樹璃先生。この寒空の下、待つ方の身にもなってくれよ」
 反射的に目を腕でかばった樹璃の耳へと、ふざけたような東城の言葉が届く。視覚の大光量補正機能を作動させながら、声の主を愕然とした表情で見つめる樹璃。
「東、城……!?」
「やれやれですなぁ、樹璃先生。そいつはコーポに反逆するレジスタンスの一員、そいつを助けようとするってのは、れっきとしたコーポへの反逆行為ですぜ?」
 にやにやと笑いながら、不精ひげの生えた顎を撫でて東城がそう言う。くっと小さく呻きながら、樹璃は周囲を見回した。無表情に銃を構えた兵士たちが十人以上、ぐるりと完全に自分たちのことを包囲して居る。
「何故、分かった……?」
「ん? ああ、監視機構は無力化しておいた筈なのに、ですかい? 考えが、ちと甘かったようですなぁ、樹璃先生。確かにうまく細工はしてたようですがね、こっちにはこういう専門家がついてるんですよ」
「シン……!」
 憮然とした表情を浮かべながら、東城の背後から姿を現した弟の姿を認めて、樹璃が呻く。小さく首を振ると、コーポの技師、樹璃の施した細工を見破った有栖川シンが口を開いた。
「残念です、姉さん。以前、忠告した筈ですよね。僕はあなたを拷問するような真似はしたくない、と。貴女の性格だと、彼女に必要以上に肩入れしてしまう危険性は確かにあったわけですが……。
 僕も、コーポの人間です。命令には従わなくてはならない。見逃すわけには、いかないんです」
「ふっ、ふふふふふっ。なるほど、確かに私が甘かったようだな。だが……!」
 すばやく白衣の懐へと手を差し込み、小型の銃を抜く樹璃。だが、その銃口が東城に向けられるよりも早く、兵士の一人が撃ったビームが正確に樹璃の銃を撃ち抜いていた。自分の手から弾き飛ばされた銃へと視線を向ける樹璃へと笑みを向け、東城が懐から取り出した小さな箱状の機械のスイッチを入れる。
「あっ、がっ、ウアアアアアアァッ!」
 悲鳴を上げながら自分の頭を抱え込むようにして身体をのけぞらせ、地面に倒れ込む樹璃。地面の上を転がり、のたうつ樹璃の姿を笑いながら眺め、東城が軽く肩をすくめた。
「どうです? 苦痛チップの味は。最低レベルの発動ですが、それでも全身がバラバラになりそうな痛みでしょう? 更にレベルを上げれば、悲鳴すら上げられなくなる……」
「や、やめ、ガッ……!!」
 脳髄に生め込んだチップによって直接脳の神経に痛みを送り込む苦痛チップ。懲罰、服従のためのものだが、その苦痛は想像を絶する。最高レベルで発動させれば、十秒とたたずに痛みによってショック死を引き起こせるほどだ。大きく目を見開き、口を絶叫する形に開いたままで樹璃が身体を硬直させ、ぶるぶると痙攣させた。あまりの痛みに、悲鳴を上げることも身体を動かすことも出来ない。
「さあて、マヤちゃん。逃げようとするなんていけない子だなぁ。素直に質問に答えれば、いつだってここから出してあげたのに」
 ゆっくりとキャスターに近づき、布をまくり上げながら東城がそう言う。立ち上がろうにも、拷問で体力が落ちているのに加えて、拘束衣をずっと着せられていたせいで手足がなえている。精一杯の反抗としてぎっと殺意のこもった視線をマヤが向けるが、東城はまったく気にもしない。
「お仕置きはそのうちいずれするとして、とりあえず今日はこの裏切り者の始末を付けなくちゃならないんでね。せっかくだから、マヤちゃんも見学してくかい?」
「遠慮しておくわ。どうせあなたのことだから、えげつないことをするんでしょう?」
「あっはっは、そいつは誤解だな。裏切り者といったって、彼女もコーポの一員だったんだ。奇麗な身体のままで殺してやるさ」
 大きく目を見開いたまま、びくっびくっと身体を痙攣させ、泡を吹いている樹璃の身体を蹴りつけながら東城が笑う。彼が機械を操作し、苦痛チップを停止させるとがくっと首を横に折って樹璃が動きを止めた。失神し、ひくひくと痙攣している彼女の身体を兵士の一人が抱え上げる。
「僕からも、お願いしたいですね。裏切り者、といっても、やはり血の繋がった姉ですから」
「ああ、分かってるよ、有栖川さん。樹璃先生の身体には、傷一つ付けやしないさ」
 有栖川の言葉に、軽く手を振りながらそう答えて東城がいやらしく笑う。憮然とした表情のまま、有栖川は黙って一礼した。

 部屋の中央に、一辺が3mほどの立方体をした水槽が置かれている。中身は空っぽだが、水槽の天井と部屋自体の天井との隙間におそらくは注水用と思われるチューブが見えた。
 意識を失ったままの樹璃の身体が、全裸に剥かれてその水槽の床の上に無造作に転がされている。丸いギャグを噛まされているものの、束縛はされていない。対称的に、というべきなのか、マヤは服こそ着ているものの椅子に手足をしっかりと固定され、目にはゴーグルを被せられている。ゴーグルは内側に突き出した突起がまぶたを押さえ、目を閉じることが出来ない仕掛けになっているものだ。目の乾きを防ぐためにゴーグルの内側には定期的に薬剤が噴霧されている。頭自体も椅子に固定され、目を閉じることも逸らすことも出来ない状態だった。
「溺死、させるつもり……?」
「御名答。いっただろう? 彼女の身体には傷を付けないって」
 マヤの問いに、くくくっと低く笑いながら東城がそう応じる。沈黙したマヤに背を向けると、東城は壁際に立つ有栖川に向かって軽く手を上げた。
「いいぜ、始めてくれや、有栖川さんよ」
「……ええ」
 無表情に頷いて、有栖川が壁のパネルを操作する。どどどっと勢いよく水槽の内部に水が注がれ始めた。床の上に転がされていた樹璃が、顔を濡らす水に意識を取り戻し、顔を上げる。
「むぐぁっ!?」
「よーう、樹璃先生。気分はどうだい?」
 ギャグによってくぐもった声を上げる樹璃へと、東城が笑いかける。勢いよく水位を増していく水槽の中に立ち上がり、東城の方を向いた水槽の壁に張りついて樹璃ががつんと拳を壁に叩きつけた。
「ゆっくり泳ぎを楽しんでくれや。あんたが加えてるそいつは、水から酸素を取り出してくれる。息は出来る筈だぜ? ま、辛うじて、だがな」
「むぐっ、うぐうあぁっ!」
 不明瞭な声を上げ、樹璃が拳を何度も壁に叩きつける。にやにやと笑いながらその姿を眺めている東城。ぐんぐんと水位が上がり、樹璃の膝から腰、胸から首へとみるみるうちに水面が上昇していく。
「うぶっ、ぶはぁっ」
 水位が、樹璃の鼻を越える。手足を動かし、水面上に頭を上げながら樹璃が激しく首を振った。濡れた髪が踊り、水しぶきを撒き散らす。そんな樹璃の努力を嘲笑うように水位は上がりつづけ、ぐんぐんと水槽の天井が樹璃の頭に近づいてくる。こつん、と、水槽の天井に頭をぶつけた樹璃の瞳に恐怖の色が浮かんだ。
「うぐぐぅ、ごぼっ、がはっ、ごぼぼぼぼ……」
 水槽の中が完全に水で満たされる。有栖川が注水を止め、ゆっくりと水槽の方へと振りかえった。喉元を押さえ、苦しげな表情を浮かべて樹璃が水槽の中でもがいている。
 水槽は、一辺が3mの立方体。樹璃は手足を拘束されていないから、内部で自由に動きまわることが出来る。とはいえ、天井まで一杯に水が満たされた水槽の中に、空気は残されていない。東城の言葉の通り、口に噛まされたギャグからはこぽこぽと小さな気泡となって空気があふれてきているが、満足に呼吸できる量とは到底言えない。水に潜り、ストローを使って息をしているようなものだ。窒息することだけは辛うじて免れているものの、息苦しさは少しも消えず、時間と共にそれは増しているような感じがした。
 苦悶の表情を浮かべて、樹璃が拳で水槽の壁を叩く。身体をくの字に曲げ、その勢いで水の中ででんぐりがえりをするような感じで身体を回転させる。空気を求めるように大きく右手を伸ばす。苦しげに左右に身をよじり、身体をのけぞらせる。
「ごぼっ……う、ぐぐぐ……ぐ、ごぼぉっ……むぐ、ぐ……ごぶっ」
 普通に呼吸をするには、ギャグからあふれてくる空気は全然不足している。息を止め、口の中に空気がある程度満ちるのを待って吸う、という行為を樹璃が繰り返す。手足が自由なのも、かえってこうなると樹璃には不幸だ。苦しさを紛らわそうと身体が勝手に動いてしまうのだが、身体を動かせばその分酸素が必要となる。動けば動くほど、もがけばもがくほど息苦しさは強まるのだ。口の中に酸素がギャグによって供給されるから、窒息死も気絶も出来ない。
「嬲り、殺しじゃない……」
 水の中で延々と苦悶を続ける樹璃の姿に、思わずマヤがそう呟く。くくくっと低く笑って、東城がマヤの方を振りかえった。
「同情してるのかい? マヤちゃん。まぁ、そりゃそうだよなぁ。彼女は、マヤちゃんを助けようとしてあんな苦しい目にあってるんだから。放っておけば、二時間でも三時間でも、彼女はああやって水の中でもがき苦しみつづけることになる。裏切り者のふさわしい末路、って奴だな」
 笑いながらそう言い、東城が懐から取り出した苦痛チップの制御装置を無造作に操作する。ごぼおっと気泡を口から吐き出し、水中で樹璃が身体を硬直させた。ゆらゆらと水中を揺れながら水槽の底に沈んでいく。東城がスイッチを切ると、全身を貫く激痛から解放された樹璃が再び襲いかかってきた息苦しさに身悶え始めた。がんがんと拳で水槽の床を叩き、身体をくねらせ、空気を求めるかのように足をばたつかせて水槽の天井近くまで浮上する。もちろん、そんなことをしても一杯に水が満たされた水槽の中には空気は残っていない。
 息が出来ないことが原因で起こる頭痛を感じているのか、両手で頭を押さえて樹璃が身体をのけぞらせる。小さな気泡をあげながら、ゆっくりと樹璃の裸体が水の中をさまよう。苦悶に表情を歪め、空気を求めてあがく樹璃の姿を、東城が楽しげに笑って眺めている。視線は水槽の中で苦悶する樹璃の方へと向けたまま、軽い口調で東城がマヤに呼びかけた。
「どうだい? マヤちゃん。一つ、取り引きをしないか?」
「取り引き……?」
「そうさ。マヤちゃんは素直に俺の質問に答える。そうしたら、俺は彼女を一思いに殺してやってもいい。マヤちゃんが素直になれば、彼女はこれ以上苦しみを味あわずに済むのさ」
「馬鹿馬鹿しい。彼女はコーポの人間で、私にとっては敵も同然なのよ。その彼女を助けるために、どうして私が仲間を売らなきゃいけないの?」
 内容ほどは、強くない口調でマヤがそう東城の提案に応じる。性格にもよるのだろうが、たとえ憎んでいる相手でも目の前で延々と苦悶している姿を見るのは気分のいいものではない。短時間であればともかく、苦悶が長引けば何もここまでしなくても、という思いが湧き上がり、同情してしまうのが普通の人間の反応というものだろう。
「おやおや、冷たいねぇ。彼女の苦しみは、マヤちゃんのせいなんだぜ? ま、さっきも言った通り、彼女にくわえさせたギャグは後二・三時間は酸素を発生させつづけるからな。気が変わったら、いつでも言ってくれや」
 軽く肩をすくめて、東城が苦痛チップを作動させる。ほんの短い時間だが、口の中に懸命に息苦しさを堪えて空気を溜めていた樹璃に悲鳴を上げさせ、空気を吐き出させるには充分だった。息継ぎに失敗した樹璃が苦痛チップの激痛から解放された瞬間から、喉元を両手で押さえて激しく身体をくねらせる。全裸で身悶える樹璃の姿を眺めながら、くくっと東城が低く笑った。
「しっかし、こうしてみると樹璃先生、結構いい身体してるじゃないか」
「不謹慎ですよ」
 ぼそっと、東城の呟きに声を返した有栖川が静かにマヤの横に移動する。
「出来れば、早めに決断してください。あなたが素直になりさえすれば、姉さんはこれ以上苦しまずに済む。あなたも、これ以上の拷問を受けなくて済む。お互いのために、一番いい方法が何かは、少し考えれば分かる筈です」
「……嫌よ。私は、何もしゃべるつもりはないわ。たとえ殺されても、ね」
「強情を、張らないでください。いつまでも黙秘を続けることが出来るなどと、本気で考えているんですか?」
 ほんの僅かに怒りを含んだ声で、有栖川がそう言う。ぎゅっと唇を噛み締め、否応なしに目に入ってしまう樹璃の苦悶する姿を見つめながらマヤが答える。
「私は、何もしゃべらない」
「有栖川さんよ、下手な説得は逆効果だぜ? かえって意地にさせるだけだ」
「……その、ようですね」
 ふいっとマヤから視線を逸らしながら、有栖川が東城の言葉に応じる。そのまま部屋の扉へと足を向けた有栖川へと、東城が秘肉っぽい口調で声をかけた。
「おや、退場かい? 有栖川さん」
「ここに居ても、やることはもう有りませんから。他にも仕事は残っていますし、失礼します」
「そうかい? ま、姉が苦しんでる姿は見たくはないか。ご苦労だったな」
 東城のあざけるような調子の台詞に、無言のまま有栖川が部屋を出ていく。ひょいっと肩をすくめると、東城は壁のパネルへと歩みより、タッチパネルの上で指を踊らせた。水槽の底から水が排出され、同時に天井部分に小さな穴が開く。水位が少し下がり、その分出来た天井とのわずかな隙間へと、空気を求める樹璃が懸命に水をかいて浮かび上がっていく。指二本分ほどの空間へと鼻と口とを突きだし、息をしようとする樹璃。にやっと笑って東城が指を踊らせ、天井の穴を閉じると同時に水槽の中へと再び水を注ぎ込む。
「うぶっ、ぶあっ、ごぼぼっ」
 息が出来ると思ったのも束の間、勢いよく注ぎ込まれる水のせいで水面が激しく波立ち、樹璃の顔を水が覆う。気管に水を入れてしまったのか激しく咳き込みながら、樹璃の身体が水槽の底に沈んでいった。再び襲ってきた息苦しさに、がんがんっと水槽の底に額を打ちつけ、樹璃が苦悶に身をよじる。
「こいつは、おまけだ」
 笑いながら東城が苦痛チップを作動させる。悲鳴を上げながら背をのけぞらせる樹璃。ごぼごぼと口から気泡が上がり、うつぶせに近い状態だった裸身が弾かれたように水中に跳ね上がり、ゆっくりと後ろ向きに回転する。息の出来ない苦しみと、苦痛チップによる激痛とに翻弄され、もがき苦しむ樹璃の姿を見つめてマヤがぎゅっと唇を噛み締める。
「さっさと殺せ、一思いに殺してくれって、そう思ってるんだろうなぁ、樹璃先生。さて、彼女を助けられる方法を知ってるマヤちゃんとしては、どうするのかなぁ? それとも、憎いコーポの人間なんだから、せいぜい苦しみ抜いて死ねばいいって、そう思ってるのかなぁ?」
 いやらしい口調で、東城がマヤに呼びかける。ぎゅっと唇を噛み締めたまま、マヤは拳を震わせていた。樹璃は、確かにコーポの人間で、彼女の手でずいぶんと痛い思いもさせられた。恨む気持ちが、まったくないといえば嘘になる。しかしそれは任務だったからで、人間個人としての樹璃とは、もしかしたら仲良くなれたかもしれない。少なくとも、彼女は自分のことを助けようとしてくれたのだ。もしも彼女が東城のいいなりになってただ任務を果たすだけであれば、彼女がこんな目にあうことはなかったはずで、東城の言うように自分が彼女を苦しめる原因を作ったといえないこともない。
「彼女が苦しめばいいだなんて、思ってないわ。けど、仲間を売ることも出来ない。私は、何もしゃべらないわ」
「ま、別にいいけどね。今回は、マヤちゃんにしゃべってもらうのが目的じゃないからな。あくまでも、裏切り者の始末をしようってだけだから」
 ややあって、悲痛な表情を浮かべて口を開いたマヤに向かい、あっさりと東城が応じる。彼の手の中で機械が操作され、苦痛チップによる激痛を味あわされた樹璃が水中で悲鳴を上げながら身体を硬直させた。チップが切られると、悲鳴を上げたせいで空気を吐き出してしまい、ますます激しくなった息苦しさに苛まれて樹璃が身体を水中でくねらせる。
 空気を求め、浮上したり沈んだりを繰り返す。喉元を押さえて身体をくの字に折り、頭を抱えて左右に激しく首を振る。水槽の壁や床を拳で叩き、口から気泡を吐き出しながら身悶える。東城が笑いながら苦痛チップを作動させ、樹璃が弾かれたように身体をのけぞらせて悲鳴を上げる。
 何回も、何回もそんなことが繰り返され、時間だけが過ぎていく。
 一時間、二時間……。
 意識を失うことも許されず、水の中でもがき、苦しむ樹璃。
 目を逸らすことも閉じることも出来ずに、その姿を見させられているマヤ。
 東城は、薄く笑いを浮かべたまま、時にはチップを作動させて樹璃に激痛を味あわせ、時には水槽の中の水を少し抜いて樹璃に息を思いっきり吸うチャンスを見せびらかす。水の抜かれる流れによって水槽の底の方へと引き寄せられた樹璃が、無駄な努力と分かってはいても押さえきれない衝動に駆られ、懸命に水をかいて浮上を試みる。顔を水面から突き出し、これで息が継げると思った瞬間、再び水を入れて希望を打ち砕く。
 絶望と苦悶を濃く表情に刻み込み、樹璃が水槽の中で苦悶する。水の中で揺れる乳房や、苦しさに足をばたつかせるたびにあらわになる秘所などを鑑賞しつつ、東城がゆっくりと時間をかけて樹璃をいたぶる。
「さて、と。そろそろかな」
 三時間あまりが過ぎた頃、そう呟いて東城がパネルを操作する。水槽の底から水が抜かれ、その流れによって底に沈んだ樹璃が、もう幾度となく繰り返された期待と絶望を充分承知しつつ、それでも本能的に空気を求める衝動によって水をかいて浮上する。口にくわえたギャグから漏れる空気の量が減り始め、息苦しさが加速度的に増していたせいもあるだろう。がんがんと激しく頭が痛み、思考力がほとんど消えてしまっている。ただひたすらに空気を貪りたい、と、その衝動だけが樹璃の脳裏を占めていた。
 今回は水の排出量が多く、頭一つ分ほどの空間が生まれた。ぷはぁっと水面から顔を出した樹璃の口から、ぱちん、と、音を立ててギャグが外れる。そのことを怪訝に思うまもなく、むしろ口を塞ぐギャグが無くなったことを喜びさえして樹璃が大きく息を吸い込んだ。三時間ぶりの、まともな空気だ。
「最後の空気だからな、たっぷり吸っておきな」
 嘲笑うような東城の言葉が耳に届くが、それに反応する余裕はもはやない。胸の中の濁った空気を吐き出し、代わりに新鮮な空気を胸一杯に吸い込む。激しかった頭痛が嘘のように消え、ほっと樹璃が一息をついた瞬間、どどどっと勢いよく注水が始まった。
「うっ、ぶっ。ぶはぁっ。あぶっ、ぶっ、ごぼあぁっ」
 運悪く、というべきか、注水孔の真下に居た樹璃が頭から水流を叩きつけられて水中に沈む。懸命に流れから逃れ、水をかいて水面に再び顔を出す樹璃。だが、激しく波だつ水面に翻弄されるばかりでゆっくり息継ぎをする暇もない。辛うじて胸に息を吸い込んだ樹璃の頭が、水面下に沈んだ。再び、水槽全体に水が満たされる。
 今回は、酸素を供給してくれるギャグは存在しない。底に沈んだギャグは、排水口から既に流されてしまっている。両手で口を押さえ、懸命に息を堪える樹璃。だが、無限に息を止めることなど所詮は不可能だ。やがてぶるぶるぶるっと全身が小刻みに痙攣し始める。
「ごぼぉっ。げぼっ、ごぼごぼごぼごぼごぼ……!」
 樹璃の口から気泡が上がる。反射的に息を吸ってしまったのか、水を飲んだ樹璃が咳き込み、口から気泡を吐き出しながら激しく身悶えた。空気を求めるように腕を高くさしのべながら水を蹴り、天井に左掌をつけてがんがんと右拳を打ちつける。
「あっはっはっはっは、無駄だよ、無駄無駄。おとなしく、溺れ死にな!」
 樹璃のあがきに、東城が哄笑を上げる。喉元に手を当て、苦悶に表情を歪めた樹璃が天井を蹴って沈み込み、東城たちの方に向いた壁面に顔を押し当ててがんがんと拳で叩く。苦悶と哀願の色を刻んだその表情が歪み、ごぼっとひときわ大きな気泡が口からあふれた。身体をのけぞらせ、ゆっくりと仰向けになって浮かび上がっていく樹璃。笑いながら、東城が苦痛チップを作動させる。
「……っ!!」
 びくんっと、樹璃の身体が震える。大きく開かれた口から、気泡はもう上がらない。既に肺の中に空気は残っていないのだろう。息が出来ず、意識を失ったところで苦痛チップによる激痛を味わい、再び窒息の苦しみの直中へと引き戻された樹璃が身体をよじって悶える。
 びくびくっと、樹璃の手足が痙攣する。こちらを向いた彼女の股間から黄色っぽい液体があふれて僅かに水を濁らせた。全身が波だつように死の痙攣に覆われ、肛門の括約筋が緩んで大便が顔を覗かせる。糞尿を垂れ流しながら、ゆっくりと樹璃の身体が浮かび上がっていく。
「はははっ、無様だねぇ。コーポを裏切ろうだなんて、馬鹿なことを考えた酬いって奴だな」
 左手で顔を覆い、嬉しそうに東城が笑う。ぎゅっと唇を噛み締めて身体を震わせているマヤの前髪を掴むと、東城がにやっと笑った。
「さあて、これで裏切り者の始末は終わったわけだ。明日になったら、逃げようとしたお仕置きをたっぷりと受けてもらおうかね、マヤちゃんにも。ま、素直に自白してくれれば、逃げようとしてことは大目に見てやってもいいけどな」
「言ったでしょ? 私は、何もしゃべらない。せっかくの休暇を潰したくなければ、さっさと殺すことね!」
「おいおい、何を言ってるんだよ。せっかくの休暇だからこそ、趣味に興じるのが正解ってもんだろ?」
 マヤの叫びに、東城が笑いながら答える。ぎゅっと唇を噛みしめ、マヤは東城のことをにらみつけた……。
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