FILE3.碇シンジ


「アスカの報告書は見せてもらった」
 いつもどおり、机の上に乗せた両手を鼻の辺りで組みあわせ、その上に眼鏡を乗せるような姿勢でNERV司令官碇ゲンドウはそう言った。感情をうかがわせない口調もいつもと同じだ。ただ、いつもならその傍らに立っている冬月の姿は今はない。
「結果は、良好のようだな?」
 問いかける相手は、赤木リツコ。やや緊張したような表情でゲンドウのことを見つめていたリツコの瞳にほっとしたような光が浮かぶ。
「はい。他の人間との今までの関係は出来るだけ崩さないように、と、そう言ってありますから、彼女の変化に気付いている人間はごく少ないはずです。命令違反が少なくなったな、と思うぐらいで……」
「結構。では、次の仕事だ」
 リツコの言葉を遮るようにゲンドウがそう言い、さっとリツコに緊張が走る。無造作に机の引き出しから取り出した一枚の小さな紙をゲンドウは机の上に投げ出した。数歩踏み出して机の上に投げ出された紙を手に取ったリツコがわずかに目を見開く。紙に記されていた名前と方法は……。
「そんな……。よろしいんですか?」
「命令だ」
 リツコの疑問に、一言で答えるとゲンドウはそのまま口を閉ざした。目的も理由も、説明する気はないらしい。それ以上問いを続けようとはせず、リツコは黙って一礼した。彼女が返した紙をゲンドウがくしゃりと握り潰し、灰皿に放り込んで火を付ける。小さな炎を上げて燃え尽きていく紙へと無表情に一瞥をくれるとゲンドウは立ったままのリツコへと視線を戻した。
「どうした? まだ、何かあるのか?」
「い、いえ……では、失礼します」
 もう一度頭を下げて部屋から出ていったリツコの姿を見送り、ゲンドウは僅かに唇を歪めた。

「あ、あの! リツコさん、これ、一体なんなんです!?」
 椅子に手足を拘束された碇シンジが不安そうに叫ぶ。いきなり呼び出され、椅子に腰かけた途端拘束具が飛び出せば普通は誰でも慌てる。動揺するシンジへと小さく笑みを浮かべたリツコが視線を向けた。
「あら、エヴァの試験だって、言わなかったかしら?」
「そ、それは聞きましたけど……あ、あの、何が始まるんです?」
「最初に説明すると、試験にならないのよ、悪いけど」
 笑いながらそう言うと、リツコは無骨なゴーグルでシンジの目を覆った。視界を闇で閉ざされ、うわっとシンジが情けない悲鳴を上げる。
「ほら、動かないで。男の子でしょ?」
「あ、あの、その、でも……」
 なおもぐじぐじと何かを言いかけるシンジを無視して、リツコがこちらも無骨なヘッドホンをシンジに被せた。ベルトで頭に固定して、ちょっとやそっとでは外れないようにする。
「それじゃ、始めるわよ」
 完全に近いレベルで音を遮断するヘッドホンを被せられたシンジには届かないのを承知で、リツコがそう告げる。彼女が機械のスイッチを入れるとびくんっとシンジが身体を震わせた。
「う、うわあああああああぁっ」
 椅子に拘束された身体を震わせ、激しく頭を振ってシンジが絶叫を上げる。ヘッドホンから聞こえてきたのは、特殊な処理をされた音だった。音量自体はさほどでもないが、人間が耳にするととてつもない不快感を与えるものだ。
「や、やめてくださいっ。う、うわっ、うわあああぁっ」
 シンジの言葉にかまわずにリツコが二つ目のスイッチを入れる。ぎゅうっと身体を硬直させ、シンジがますます大きな悲鳴を上げる。ゴーグルの内側では様々な光が不安定に明滅していた。赤、青、黄、緑、紫、白。目まぐるしく切り変わる光。まぶしさに目を閉じても、まぶたごしに光がシンジの視神経を、更には精神を撹乱していく。
「や、やめ……ぎぼ、ぢ、わる……うわあああああああぁっ」
 がっくりと首を折り、弱々しく呻いたシンジが、リツコが三つ目のスイッチを入れた途端弾かれたように顔を上げて絶叫した。今度は単純に、音量と光量のアップ。ますます強烈になった刺激に翻弄され、シンジが悲鳴をあげつづける。
「うあぁっ、あぐっ、あぐぐっ、ぐあああああぁっ」
「……何が、目的なのかしら?」
 椅子の上で身体をのたうたせ、苦悶の叫びを上げつづけているシンジの姿を無感動に眺めながら、リツコが僅かに眉を寄せてそう呟いた。視覚と聴覚との双方から精神を撹乱していくこのやり方は、それこそスパイの尋問にでも使うようなやり方だ。もちろんそんなへまをやるつもりはないが、下手をすれば精神を破壊、廃人にしかねない。アスカに対して行ったように明確な目的がみいだせず、リツコを悩ませている。とはいえ、ゲンドウが指示してきた以上、自分はその指示に従うだけだが。
「う、うわああああぁっ。うぐっ、げぼぉっ」
 十分近くもたった頃。悲鳴を上げつづけていたシンジが身体を痙攣させながら自分の胸や足へと嘔吐した。即座にリツコの腕が翻り、三つ目のスイッチを切る。音と光がその強さを弱めるが、シンジにとってはあまり慰めにならないだろう。今の低レベルの刺激ですら人間にとっては充分な苦痛だ。
「やめっ、リツッ、コ、さんっ、やめっ、てっ、う、うわああああああぁっ」
 激しく頭を振りながら、シンジは叫びつづけていた……。

「エ、エヴァ初号機、起動!」
 日向マコトの動揺した叫び。中央司令室でのんびりとコーヒーを飲んでいたミサトがぶっと危うくコーヒーを吹き出しそうになる。
「なんですってぇっ!? シンジ君は!?」
「エントリープラグ、ささってません! 無人です!」
 ミサトの叫びに、慌ただしくコンソールを操作しながら日向が応じる。ぎゅっと眉を寄せ、ミサトが厳しい表情を浮かべる。
「遠隔操作されてるって言うの!?」
「外部からのあらゆる入力、認められません!」
「使徒の反応、なし! どうなってんだ、こりゃ……」
 日向に続いて青葉シゲルが報告を告げ、その後で一人ごとのように呟く。その思いはミサトも同じだが、かといってのんびりと原因を究明していられるような状況でもない。
「初号機、拘束具の排除を開始! 長くはもちませんよ!」
「っ、硬化ベークライト、注入! エヴァが暴走したら、本部が漬れるわよ! それと、リツコを呼び出して! 早くっ!」
 日向の半分悲鳴のような報告に矢継ぎ早に指示を下しながら、ミサトはぎゅっと唇を噛み締めた。背後を振り返り、一人高い場所で沈黙を保っているゲンドウの方へと視線を向ける。こんな状況でも泰然としている司令の姿が、頼もしくもあり恨めしくもある。
「やはり、動いたか。そこに居るんだな、ユイ……」
 伝わってくる微かな振動に、ゲンドウは小さくそう呟いた。

「うっ、うぐぅっ、あっ、ぐっ、ぐあああぁっ。助け、て、あああっ、助けて、よ、うわあああああっ」
 椅子に拘束されたまま、延々とシンジは悲鳴を上げつづけていた。この試験--いや、むしろ拷問と呼ぶべきか--が始まってから一時間以上が経過していた。その間、一つ目と二つ目のスイッチは入れられたままで、三つ目のスイッチだけが様子を見て入れられたり切られたりを繰り返している。三つ目のスイッチが切られるのは決まってシンジが嘔吐した直後だから、彼の身体は自分の吐瀉物でべとべとになっていた。
「うぐっ、ぐええぇっ、げほっ、う、うげぇっ。あっ、あっ、うわあああああぁ……っ」
 何度も嘔吐を繰り返したせいで胃の中身がからっぽになったのか胃液だけを吐き出してシンジが身悶える。僅かに眉をしかめてリツコが三つ目のスイッチを切った。シンジの上げる声は、叫びというよりは呻きと形容した方が近いものになりつつある。
「そろそろ限界かしら……? この子、あんまり体力が有る方じゃないし……」
 まだ本当の限界までは間があると思いつつも、小さくリツコがそう呟いたその時。ピピッと彼女の懐で小さな音が鳴った。呼び出し音に軽く首を傾げながら、リツコが部屋から出る。
「私だけど?」
「リツコ!? 大変なのよ、初号機が勝手に動き出したの!」
 携帯から飛び出したミサトの大声に思わず耳から携帯を離しながら、リツコが眉をしかめた。
「初号機が……? それで? 状況は?」
「硬化ベークライトでとりあえず固めたけど……ともかくすぐに来て! 詳しい話は後よ、後!」
 一方的にそうまくしたて、ミサトが通話を切る。ふぅっと溜め息をつくとリツコは白衣のポケットに携帯を落とし込んだ。
「暴走……? でも、どうして……?」
 小さくそう呟いて、リツコは廊下を小走りに進み始めた。シンジのことを置き去りにしてしまったことに彼女が気付いたのは、初号機の調査が一段落ついてからのことだった。まぁ、それだけ彼女も動揺していたということだろう。もっとも、そんなことは放置されたシンジにとっては何の慰めにもならないが。

「うあぁ……助けて……ああっ、あっ、ああぁっ。リツコ、さん……ああぁっ、ミサト、さん……うぐっ、ぐぐぅっ、綾波……はっ、ああっ、アスカ……うううっ、ううっ、うわああああああっ」
 一人放置されたシンジが、誰も居ない部屋の中で身悶え、呻きつづける。一定時間無操作だと自動的に停止するように機械が設定されていたのは、彼にとって幸いだったのかどうか。後日、彼は病院のベットで白い天井を見上げて目を覚ますことになるのだが……。
「う、うわあああああぁ……っ」
 今はただ、誰も居ない部屋の中にむなしく彼の呻きが広がるばかりだった……。
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