キリシタン弾圧外伝/一心


 公儀の出した、キリシタン禁制のお触れ。それに基づき、長崎奉行竹中采女の手によって行われるキリシタンの弾圧は、日に日に過酷さを増していった。踏み絵による、キリシタンのあぶり出しと捕縛、そして改宗を迫る過酷な拷問。多くの人間が捕らえられ、その半数は拷問に耐えきれず転ぶことを選択した。残る半数、あくまでも転ぶことをしなかった人間たちは、あるいは過酷な拷問の中で生命を落とし、あるいは見せしめのために公開で処刑された。火あぶり、張り付け、串刺し……凄惨な処刑の様に、多くの人間が恐れ心を揺らしたが、一部の人間は逆に信仰を強くした。元々、キリスト教には為政者の弾圧を受けて殉教することを賛美する風潮が有る。過酷な拷問に耐え抜き、最後まで転ぶことなく処刑される人間たちは、残されたキリシタンたちの目に称えるべき存在として映ったのである。
 そんな、尊敬の念を持って想起される殉教者たちの中に、ある一家が居た。父親は弾圧が始まる前に病でこの世を去っていたものの、残された母親と子供たちは最後までキリシタンとしての信仰を守り抜いた一家だ。そして、その一家にただ一人、まだ生命を保っている人間が居ると、密やかな噂が隠れキリシタンたちの間に広まっていた。一家の長男である青年。名は、一心。若き日に出家し、寺に身を置く彼は、その立場ゆえに踏み絵を免れている。
 一家ことごとくがキリシタンであった。では、彼もまた、キリシタンなのではないだろうか。そんな憶測が隠れキリシタンの間で密やかに交わされ、やがてそれが事実であることが判明した。そして隠れキリシタンたちは、彼の元へと度々赴くようになった。彼を訪ねるという事は、外から見れば寺に詣でるも同じ事。そして、寺に詣でる事は、キリシタンである事を隠すちょうどいい隠れ蓑になる。回数が多くなれば尚更だ。
 熱心に寺に詣でると見せかけておいて、実際にそこで行われるのは、一心の所有する聖母観音や魔鏡を用いた礼拝だ。寺の中でキリシタンの集会が行われているとは流石に予想もつかないのか、采女の手も彼の元までは伸びようとはしていない。
 しかし、秘密を永遠に隠す事は出来ないのか。彼もまた、家族や他のキリシタンが辿った過酷な道を避ける事は出来なかったのである……。

「一心! これ、一心はおるか!?」
 どたどたどたっと、激しい足音と共に年老いた男の声が響く。つと読んでいた書物から視線を上げ、一心は僅かに眉をしかめた。中肉中背ながらも、均整の取れた筋肉質の身体つき。容貌も整っているが、甘い美男子という印象ではない。内面の剛気さがにじみでた、武士を思わせる猛々しさを秘めた顔つきである。正式にはまだ出家をしておらず、髪を短く刈り込んではいるものの、坊主頭ではない。
「和尚様?」
「いっ、一心! こ、これはなんじゃ!?」
 ばたんっ、と、乱暴に開かれた障子の向こうに立つ禿頭の老人。興奮のためか目を血走らせている彼の手に、丸い鏡が握られている。僅かに目を見開き、一心が和尚の方へと向かって座り直した。
「それを、どこで?」
「あ、綾が、お前の箪笥の中から見つけたのじゃ。こ、これは、噂に聞く魔鏡とか言うものではないのか!?」
 和尚の手の中で鏡が角度を変え、書物を読むためにつけられていた蝋燭の光を反射して薄暗い廊下の壁にぼんやりとした丸い光を浮かび上がらせる。丸い光の中にぼやけた影が映っていた。蝋燭の頼りない光ゆえに細かいところは判別できないが、その影の形は十文字を描いている。鏡を磨く時に裏側に凹凸を作り、光を反射させる事で影を浮かび上がらせる。おおっぴらに十字架や像を持つ事の出来ない隠れキリシタンたちが考え出した、魔鏡と呼ばれる礼拝のための道具である。
「綾殿、が。そう、ですか……」
 小さく溜め息をついて一心が僅かに首を振る。和尚の一人娘であり、彼の妻でもある女性、綾。しかし、半ば和尚が強引に進めた縁談によって結ばれた二人の間には、ほとんど交流というものはなかった。彼女の心はむしろ、先に出家して僧籍に入っていた仙雄という男へと向かっていたのだ。それを知りながら放置していた事の酬いか、と、あきらめを多分に含んだ心情で一心は内心呟いた。反論しない一心の姿に、急に弱気になった口調で和尚が言葉を続ける。
「の、のう、一心。これはおぬしのものではないのだろう? どこかで拾ったものを、後で届けようと思ってつい忘れてしまっただけなのであろう? な、な、一心。そうだと言っておくれ。この寺の跡継ぎであるおぬしが、キリシタンなどである筈がないじゃろう……?」
「いえ、それは私のものです、和尚様。今まで和尚様を欺いていた事はお詫びいたします。事が露見した以上、どうぞ私を奉行所へ訴え出てください。この者はキリシタンである、と、そう訴え出たものには、褒美が出る筈。また、キリシタンをそうと知って匿えば、その者もまた罪に問われますゆえ」
「一心、おぬしは……」
 はっきりと首を振りながら、落ち着いた口調でそういう一心の事を、途方に暮れたような表情で和尚が見つめる。小さな足音と共に更に二人の人間が途方に暮れて立ち尽くす和尚の背後に姿を現した。艶やかな美貌の女と屈強な身体付きの男。綾と仙雄だ。
「あなた……私たちを、騙していたのですね?」
 父親の背後から、夫へと視線を向けて綾がそう尋ねる。落胆や傷ついたような響きは、皆無ではないにしろごく僅かな口調だ。穏やかな口調で、妻を見返しながら一心が応じる。
「否定はしない。済まないと、思っている」
「の、のう、一心。転べ、転ぶのだ。今ならばまだ、儂らの心のうちに秘めておく事が出来る。な、おぬしがキリシタンでなくなりさえすれば、今まで通りに暮らせるのじゃ。キリシタンは全て死罪となる事、おぬしとて知っていよう? な、一心、この魔鏡をその手で割り、転んだ証としてはくれまいか?」
 魔鏡を差し出しながら、和尚が一心へとそうすがるような口調で頼み込む。ちらり、と、綾が嫌悪の表情を浮かべ、仙雄が僅かに奥歯を噛み締めた。そんな二人の態度に気付いているのかいないのか、穏やかな表情を浮かべたまま一心が首を横に振る。
「申し訳ありませんが、それは出来ない相談です。私は転ぶつもりはありません。事ここに至った以上は、既に主の御元に召された家族たち同様、殉教するつもりです」
「一心、頼む、この通りだ。おぬしは既にこの寺の跡継ぎとして認められた身なのだ。それがキリシタンであったなどと知られたら、代々守ってきた寺の名に傷がつく。な、一心、儂を助けると思って、転んでくれ」
 畳の上に膝をつき、拝むようにしながら和尚が一心にそう言う。しかし、穏やかながら強い決意を秘めた表情で一心は首を振った。二人の間で交わされた言葉に、綾と仙雄がほっと安堵の息をつく。穏やかな口調と表情のまま、一心は言葉を続けた。
「和尚様には、御迷惑をおかけしてしまう事、心苦しく思います。しかし、私も自分の心を曲げる事は出来ません」
「一心……」
「御住職様。キリシタン相手に、口での説得は無意味です。転ばそうと思うならば、拷問に頼るしかない。奉行所でもそう言っているではないですか」
 一心の決意を感じとって絶句した和尚へと、仙雄がそう言う。はっと目を見開き、和尚が仙雄の事を振り返った。
「で、では、おぬし、一心を拷問にかけよと言うのか……?」
「彼を我々の手で転ばせるか、さもなくば奉行所へ突き出すか。二つに一つです、御住職様。どうなさいます?」
 仙雄の言葉に、綾が僅かにとがめるような視線を彼に向けた。もっとも、その視線に含まれている感情の中で最大のものは戸惑いだろう。綾へと軽くめくばせを返しながら、仙雄が重ねて和尚へと決断を促す言葉をかける。唇を震わせながら、和尚が視線を仙雄と一心の間を何度も往復させた。やがて、彼の口から力のない声が漏れる。
「やむをえまい……」

「どういうおつもりです、仙雄様。あの人が転んでしまえば、計画は元の黙阿見ではありませんか」
 苦渋の決断をしたものの、一心を責める現場に立ちあうのは良心がとがめるのか、和尚はそうそうに自室へと引きこもってしまった。妻であり、女である綾が一心の拷問を行える筈もないから、当然のことながら拷問を行うのは提案をした仙雄以外にはない。さっそく庭の木の枝から逆さに一心のことを吊るし上げてしまうと、仙雄は木刀を用意するべく寺の中に戻ってきた。どこか嬉しそうな笑みを浮かべているそんな彼へと、寺の中で待っていた綾がささやくような声で問いかける。彼女の言葉に、軽く片手を上げて制するようなしぐさをしながら仙雄は苦笑を浮かべた。
「何、心配は要りませんよ、綾殿。例え転んだところで、私に拷問を受けた記憶は恐怖と共に奴の心に刻みつけられるでしょう。私の言うことに逆らえる筈がない。我々の思うように奴を動かすことが出来るようになってしまえば、夫婦(めおと)の形式などこだわる必要もないでしょう?
 それに、ね、私は奴に恨みがある。共に柔術を学んでいた時は先輩としてさんざん偉そうなことを言われて屈辱の日々を送らされましたし、あなたも奪われてしまった。多少の意趣返しは、許されるでしょう?」
「なるほど、そういうお考えだったのですか。綾は、考えが足りませんでした。どうぞ、仙雄殿の思うようにやってくださいませ」
 ひしと、仙雄の胸に顔を寄せながら綾がそう呟く。細い彼女の身体を抱き返しながら、うっすらと仙雄は笑みを浮かべた。復讐を果たし、彼女の肉体(からだ)も手に入れる。そんな明るい未来図を脳裏に描くと、どうしても笑みが浮かんでしまうのだ。
「さ、綾殿。夜は冷えます。あなたはもうおやすみなさい」
「はい。仙雄殿も、お風邪など召されませぬよう……」
 潤んだ瞳で自分のことを見上げる綾の唇へと軽く接吻し、仙雄はめっきりと冷える庭へと足を踏み出した。後ろ手に縛られ、足首を縛る縄で枝から逆さに吊られた一心の身体が風に吹かれてゆらゆらと揺れている。その光景を眺め、嗜虐的な暗い笑みを仙雄は浮かべた。

「ぐうぅっ」
 押し殺した呻きが、一心の口から漏れる。逆さに吊られた身体へと、容赦なく浴びせられる木刀の打撃。既に何発目かは数えていない。身体のあちこちに青あざが刻み込まれ、心臓が脈打つたびにズキンズキンと不快な鈍い痛みを伝えてくる。
「強情な奴だな。まぁ、それも当然か。そらっ」
「うぐっ」
 笑いと共に放たれた木刀が、一心の腹を打ち据える。漏れそうになる苦鳴を押し殺し、一心は沈黙を守った。ゆらっゆらっと逆さ吊りにされた身体が打撃の勢いを受けて前後左右に揺れる。縄がねじれ、ゆっくりと回転する彼の背中を、木刀が襲った。
「がっ、はっ」
「はははははっ、いい様だな、一心! 泣いて生命乞いをしてみたらどうだ? そらっ!」
 背中を痛打され、肺から押し出された息が苦鳴となる。僅かに身をよじる一心の身体へと、歓喜の声を上げながら仙雄が容赦なく木刀を振るう。肉を打つ鈍い音と、微かな悲鳴が、夜風に混じって響いた。故意か偶然か、目茶目茶に振るわれる木刀が一心の頭へと向かう。がっと鈍い音を響かせて木刀の先端と一心の額がぶつかり、肌が破れて赤い血が一心の額を染めた。はぁはぁと白い息を吐きながら、仙雄が肩を上下させる。
「どうだ、痛いか? 苦しいか? ああ?」
「くっ……」
 木刀の先端で、服と下帯ごしにぐりぐりと一心の股間を嬲りつつ、仙雄が暗い笑みを浮かべる。布地越しとはいえ、急所を堅い木刀の先端で嬲られて一心の表情に苦悶の色が浮かんだ。だが、歯を食い縛り、僅かな苦鳴を漏らしただけで一心はその痛みに耐えている。ちっと舌打ちを一つして、仙雄が木刀を振り上げた。びゅっと勢いよく振り降ろされた木刀が、一心の股間を容赦なく打ち据える。
「ぐああああああぁっ!」
 流石にこれはたまらず、一心が首をのけぞらせて苦悶の叫びを上げる。睾丸が叩き潰されたのではないか、と、そう思うほどの激痛。ぎしっ、ぎしっと木の枝を軋ませながら、一心が逆さに吊られた身体を激しくくねらせた。
「ふふっ、ふはははははっ! 流石にこいつは効いたみたいだなぁ、一心」
「うっ、ぐっ、ぐうううぅ……」
 びしっ、ばしっ、びしっと縦横に振るわれる木刀に連打され、一心がくぐもった呻きを漏らす。頬を横薙ぎに打たれ、折れた奥歯と共に一心は血の混じった唾を吐き出した。哄笑と共に仙雄が更に木刀を振るう。容赦のない打撃に、身体のあちこちに鈍痛が走り、ギシッギシッと枝を鳴らして一心の身体が揺れた。
 はぁはぁと息を切らし、仙雄が手を休める頃には、一心はぐったりと半ば意識を失った状態でうつろな視線を宙にさまよわせている。ふんっと僅かに鼻を鳴らすと、仙雄は木刀を投げ捨てて吊られた一心の髪を掴んだ。
「どうだ、痛いか? 苦しいか? 泣いて生命乞いをしてみせろ。そうすれば、許してやらんでもないぞ」
「こと、わる……!」
 全身を包み込む鈍い痛み。その痛みに苛まれつつ、一心が毅然とした態度を崩さずに拒絶の言葉を口にする。ちっと舌打ちを一つすると、仙雄は肩をすくめて一心に背を向けた。
「いつまで強情が張れるかな? 逆さ吊りで、奉行所の人間は数多くのキリシタンを転ばせたと聞く。貴様とて、そう長くは持つまい」
 半ば、自分に言い聞かせるようにそう呟くと、いったん仙雄は寺の中へと戻っていった。戻ってきた時には、彼の手には酒の詰まったヒョウタンと小さ目の椅子が握られている。一心から少し離れた場所に椅子を置いて腰を降ろすと、仙雄は直接ヒョウタンに口をつけて酒をあおった。
「それなりに、時間が掛かるという話だからな。のんびり待たせてもらおう」
「くっ、ぐう……」
 あざけるような仙雄の言葉に、一心が掠れた呻きを漏らす。逆さに吊るされているせいで、血が頭に登り、意識が朦朧としてくる。ガンガンと頭を殴りつけられているような痛みに、知らず知らず呻きが漏れた。散々打たれた身体が熱を持ち、冷たい夜風に吹かれているのにひどく熱い。
 一刻(二時間)あまりが過ぎる頃には、一心の顔は真っ赤に染まり、ひどくむくんでいた。一回りほども大きく腫れ上がった一心の顔を楽しそうに眺めながら、仙雄がちびちびと酒をあおる。苦しげな呻きを漏らし、背中で縛られた腕を一心はもぞもぞと動かしていた。指先が震え、何かを掴もうとしているかのように閉じたり開いたりを繰り返す。血が頭の方に集まってしまったために足の先から徐々に冷たい感覚が這い上がってくるのを一心は感じていた。もっとも、痺れたような感じが同時に広がり、苦痛はそれほどでもない。
「どうだ? そろそろ、気は変わったか?」
「殺すなら、殺せ……。転ぶ気も、生命乞いをする気も、ない……」
 苦しげな息を吐きながら、仙雄の言葉へと答えを返す一心。むっとしたような表情を浮かべ、酒を詰めたヒョウタンに栓をすると転がしてあった木刀を手にとってゆらりと仙雄が立ち上がる。
「強情を張るなっ!」
「ぐっ、くっ……」
 ばしっと木刀の一撃を受けて一心が表情を歪める。ただ、思っていたほど痛みはない。夜風のせいで冷えきり、更に血の流れが悪くなったせいで半ば感覚が麻痺しているのだろう。二度、三度と木刀を振るった仙雄が、鈍い一心の反応に憎々しげな舌打ちをして再び椅子に腰を降ろし、ヒョウタンからぐいっと酒をあおる。一心のことを見つめる彼の瞳には、強い憎悪がこもっていた。
 そもそも、仙雄の方が一心より三歳の年長である。二人とも同じ師について柔術を学んだが、年齢の差のために先に学び始めたのは仙雄の方だ。仙雄には才能が有り、たちまちのうちに先輩たちを追い越してしまった。師匠以外の人間におくれを取ることはない、と、本人が公言してはばからず、また、周りの人間も舌打ちをしつつそれを認めざるを得ないほどの腕前に成長したのだ。そうやって仙雄が天狗になっているところに、一心が遅れて入門してくることになる。
 仙雄は確かに優秀だったが、一心は更にその上を行った。入門後僅か一年ほどで、仙雄を追い抜いてしまったのだ。当然、師匠に次ぐ実力者になったわけだが、傲り高ぶった態度を取る仙雄とは対照的に一心は腰が低く、周囲の人間からは好感を持って迎えられた。実力でおくれを取った仙雄は、人望という面でも大きな差をつけられてしまったのである。彼を徹底的に傷つけたのは、師匠の漏らした何気ない一言だったろう。来客に向かい、師匠がこう言うのを廊下を歩いていた仙雄は偶然障子越しに聞いてしまったのである。『仙雄は十年に一人の才の持ち主だが、一心は百年、いや、五百年に一人という才の持ち主だ。一心を金とすれば、仙雄は、まぁ、石ですな』、と。
 誇りを粉砕された仙雄は荒れた。元々、師匠と一心に次ぐ実力の持ち主であり、暴れ出せばそう簡単には止められない。最初から、傲慢な彼の人望は高くはなかったが、よっては暴れる彼のことを慕うような人間はどんどんと減少し、逆に一心に人望は集まった。それがますます仙雄をすさませる結果になり、うっぷんを晴らす為に周囲に暴力を振るい、そのせいでますます人望を失う、と、完全な悪循環の流れにはまり込んでしまったのである。
 そんな彼を、最後まで見捨てなかったのが、この寺の一人娘でもある綾だ。理由は本人にしか分からないのだろうが、綾はみなから嫌われる仙雄のことを慕っていた。将来は夫婦になろう、と、そう誓いあったりもした。しかし、ここでもまた、一心が仙雄の前にたちはだかったのである。綾の父親、この寺の住職は、粗暴な仙雄よりも学問も出来、人望に優れる一心のことを娘の婿にと願い、本人たちの意向をほとんど無視して縁談を決めてしまったのである。
 仙雄は怒り、一心のことを憎んだ。柔術を学んだのも、綾と好きあったのも、自分が先だったのだ。それが、後から出てきた一心に全てを奪われてしまった。復讐心は暗く熱い淀みとなって彼の心の奥底に溜まっていき、そして、今、噴出したのだった。
 一心は、キリシタンである。彼に復讐するこれ以上はないほどの大儀名分を仙雄は手に入れたのだ。ただ、痛めつけられながらも、一心が自分へと哀れむような視線を向けてくるのが気に食わない。無様に泣きわめき、許しを乞うてくれなくては、恨みを晴らすことにはならないのだ。
「なんだ、その哀れむような目は!」
 酒をあおっていた仙雄が、酔いのせいか顔を赤くしてそう怒鳴る。無言のままゆらゆらと逆さに吊られて揺れている一心の姿に、かっとなったように立ち上がり、仙雄は吊るされた一心の鳩尾の辺りへと木刀の突きを放った。
「うぐっ! ぐっ、ぐふっ、げほげほげほっ」
 急所を突かれ、一心が激しく咳き込む。苦悶に身体をくねらせる彼の姿に哄笑をあげながら、仙雄は更に木刀を振るった。肉を打つ鈍い音と一心の上げる苦しげな呻きが続け様に響く。ひとしきり滅多打ちにしてしまうと、多少は気が済んだのか仙雄は寺の中へと引き上げていった。唇が切れて血を滴らせる。けふっ、けふっと咳き込みながら、一心は血がのぼってぼうっとする頭を軽く振った。火鉢を抱えて戻ってきた仙雄が一心に見せびらかすように椅子に座り、火鉢に手をかざして暖を取る。冷たい夜風に吹かれながら、一心は黙ってそれを眺めていた。
 一刻の時間が流れた。最初に吊るされてから合計すれば、二刻の時が流れたことになる。ゆらゆらと揺れながら苦しげな呻きを放っていた一心が、不意にゴホゴホッと咳き込んだ。鼻から赤黒い血があふれ、額に向かって滴る。小刻みな痙攣があっというまに全身に広がる。つうっと、両耳から細い血の筋があふれだした。がたっと椅子を蹴倒しながら仙雄が立ち上がり、慌てて木の幹に結んだ縄をほどいて一心の身体を地面に降ろす。地面に横たわった一心が、激しく胸を上下させながらげふげふっと咳き込む。鼻や耳からあふれた血が彼のむくんだ顔を斑に染めていた。
「お、おいっ、死んだか!?」
「あ、ぐ……ぐ、ごふっ、ごふっ」
 仙雄にゆすぶられ、弱々しく呻きながら一心が咳き込む。不規則だった息が弱々しいながらも落ち着いてくるのを観察し、仙雄がほっと安堵の息をつく。一心に恨みを晴らしたいとは思っているが、殺したいとまでは流石に考えていない。
「ちっ、意外と身体がやわなんだな。さて、どうするか……」
 ぼりぼりと、頭を掻きながら仙雄がぼやく。噂で聞くキリシタンの逆さ吊りは、一日以上にも渡って吊るしつづけることも希ではないというのだが。
 もちろん、実際の逆さ吊りでは行われる様々な細かい配慮を、一切せずにただ単に逆さまに吊るしているだけなのだから、長く持たないのも当然である。むしろ、一心は長く持った方だとすらいえる。仙雄の評価は、彼の無知から来る勘違いでしかない。
「ともかく、中に運ぶか……」
 そう呟くと、意識を失い、浅い息をする一心の身体を抱えあげ、仙雄は寺の中へと戻っていった。

「どうじゃ、一心は、転んだか?」
 とりあえず柔術の練習で使われている寺の離れに気絶した一心を放置し、自室の方へと戻ってきた仙雄へと、彼の部屋の前でそわそわと歩きまわっていた和尚が待ちかねたように問いかける。憮然とした表情を浮かべて首を横に振る仙雄に、落胆の色を隠そうともせずに和尚がうなだれた。
「そうか、転ばなんだか……。のう、仙雄。あれから考えたのじゃが、やはり一心の身柄は奉行所に預けることにせんか? 一心は儂の娘婿でもあることだし、そもそも仏門に使えるものがあのような惨い行いをするというのは……」
「ちょ、ちょっとお待ちください、御住職。一心をキリシタンであると訴え出れば、この寺の名に、ひいては御住職の名に傷が付くことになるではないですか。いえ、それだけでなく、キリシタンを娘婿として迎え、匿っていたなどと根も歯もない中傷をされるやもしれません。
 一心を我々の手で転ばせてこそ、道は開けるのですぞ」
 和尚の言葉に、慌てて仙雄が反論する。恨みを晴らす目的のためにも、一心を奉行所に突き出すわけにはいかない。いや、無論、奉行所に突き出せば彼を転ばせるために過酷な拷問が行われ、それでも転ばないとなれば惨殺されることになるというのは分かっている。しかし、それでは、この手で一心をいたぶり、屈服させるという目的が果たせないではないか。
「しかしのぉ……やはり、このような行為は許されることではないと思うのじゃ。確かに、寺や儂の名に傷は付くやもしれん。しかし、かといって儂らの手で一心をいたぶるというのは、仏の御心に背くというものではないか?」
「お、お待ちを、御住職。御住職とて、奉行所の拷問の過酷さは、よく御存じの筈です。彼らは、キリシタンを責め殺すことを何とも思っていない。彼らの手に渡すよりは、私たちの手で転ばせてやる方が、かえって一心のためになろうというもの。そうは思いませんか?」
「む、むぅ……」
 自分の言葉に、和尚が心を揺らすのを確認し、仙雄は更に言葉を続けた。内心で、一心のことを思いやるような台詞を言う自分の姿に滑稽さを感じながら。
「彼らに捕らえられたキリシタンは、転んだところで過酷な拷問のせいで不具にされるとも言います。途中で転ぶことにしながらも、それまでに受けた傷のせいでそのまま生命を落とすこともあるとか。そのような連中の手に渡してしまっては、一心のためにはなりませぬ。私たちの手で彼を転ばせるのであれば、生命を落とすどころかその後の生活にも支障が出ない程度の傷を負うだけで済ませることも出来るでしょう。惨く思えても、心を鬼にして一心を責めるべきです。それが、結局は彼のためにもなるのですから」
「それは、そうかもしれぬが……。分かった、おぬしにすべて任せよう。じゃが、あまり惨いことはしてくれるなよ、仙雄」
 ためらうように視線をさまよわせ、肩を落としながら和尚がそう呟くように言う。分かっております、と、口では従順に答えながらも、仙雄は内心で舌打ちをしていた。

 翌朝。柔らかいとは言えないものの、しっかりと布団で睡眠を取った仙雄が、板張りの離れに縛られたまま放置された一心の元を訪れた。一晩たったことで多少は体力が回復したのか、意外としっかりとした視線を一心に向けられ、仙雄は僅かにたじろぐようなそぶりを見せた。
「……転ぶ気には、なったか?」
「殺されても転ぶつもりはない、と、昨夜も言った筈だ。さっさと、奉行所に突き出したらどうだ?」
 内心の動揺を押し隠そうと、意識してそっけない口調で問いかける仙雄へと、同じぐらいそっけない口調で一心が応じる。ふんと鼻を鳴らすと、仙雄は背中で交差するように縛られていた一心の腕の縄をほどいた。もっとも、足首を縛る縄はそのままだ。一晩中縛られていたせいで感覚が無くなりかけた一心の腕をぐいっと掴み、背中側へと捻るようにしながら肩と肘の関節を極める。ぐっと押し殺した呻きを漏らす一心の姿に内心で快哉を叫びながら、淡々とした口調で仙雄が一心へと問いかけた。
「腕ひしぎ手固め、貴様の得意技だな。昔は散々かけられたものだが……どうだ、自分で極められた感想は?」
「ぐっ、く……。ま、まだ、甘いな。ぐううううううぅっ」
 肘の下に自分の腕を差し込み、相手の腕で自分の腕を挟むようにしながら締め上げ、ひねりを加えるのが腕ひしぎ手固めの形だ。極められると、肩と肘に激痛が走る。そして、どんな技でもそうだが、固め技と言うのは一度完璧に入ってしまえば脱出は不可能なものだ。ギリッ、ギリッと締め上げられ、一心の顔が苦悶に歪む。
「このまま、腕をへし折られたいか? ん? 逃れられぬと言うことは、貴様が良く知っておろう。転ぶと言えば、技を解いてやるが?」
「お、折るがいい……! この程度の痛みに、屈することなど、ないっ。ぐううううああっ」
 ぼたっぼたっと満面から汗を滴らせ、一心が苦悶の声を上げる。ミシミシと関節の軋む音が、身体を伝わって頭の中で大きく響いた。自分の手首を掴む仙雄の手が動くたびに、脳天まで突きぬけるような激痛が走りぬける。
「強情をはるな。転べ、転んでしまえ」
「こと、わる……! ぐあああああああぁっ!」
 バキィッ、と、乾いた音が響く。手首と肘との間に関節が一つ増え、満面に油汗を浮かべて一心が激痛に喘いだ。ぐんにゃりと折れ曲がった一心の腕から手を離すと、仙雄は今度は一心の足を縛る縄をほどいた。ぐったりとうつぶせになって身体を震わせている一心の足を掴み、自分の足と絡めるようにしながら極める。ぐうううっと呻き声を上げて一心が背中を反りかえらせた。
「足絡みだ。腕の次は、足を砕かれたいか?」
「アグッ、ぐっ、ぐあああああああぁっ」
 がりがりと板張りの床を無事な左手の指先で引っ掻きながら一心が苦悶の声を上げる。ビクンビクンと頭が跳ね、苦痛に満ちた叫びが喉からあふれる。くくっ、くくくっと含み笑いを漏らしながら仙雄は更に極めを強くし、一心の膝や脛、足首などに激痛を走らせた。
「痛いか? 苦しいか? 逃れたくば、素直に転ぶことだ。貴様も自分が得意にしていた技だけに、逃れ様のないことはよく分かっておろうが」
「転ばぬ! うぐっ、がっ、がああああああぁっ。転びは、せぬ……! うぐああああああぁっ」
 激痛に身をよじり、苦悶の叫びをあげながら一心が首を激しく左右に振る。ちっと舌打ちをすると、仙雄は一気に一心の足をひねり、膝と足首の靭帯を捻じ切った。咆哮じみた叫びを上げ、びくびくっと上体を反りかえらせる一心。がっくりとうつぶせになり、ひくひくと身体を震わせる彼の姿を立ち上がった仙雄がいまいましそうに見下ろし、どすっと横腹を蹴りつける。
「強情な奴だ。いずれ、後悔することになるだろう。意地など張らず、さっさと転んでおけば良かった、とな」
「う、うぐぐぐぐ……。デウスの愛を知らぬ、お前には分かるまい。信仰を貫くものは、決して、何者にも屈することはないのだ」
「そういって転んだキリシタンが、何人いたかな? 貴様も、その仲間入りをさせてやる」
 どすっと、もう一度蹴りを入れておいて、仙雄は持ってきた縄を使って一心の手足を縛り上げた。手首と足首とをまとめて縛る、四つ手吊りの形だ。本来は、獣の皮を剥ぐ時などに使う縛り方であり、この縛り方で吊るすというのは、人間ではなく獣扱いするという侮蔑の意味を持つ。
「あ、ぐっ、くうぅっ」
 天井の梁に通した縄の端を仙雄が引き、一心の身体を吊り上げていく。まとめて縛られた一心の手足のうち、右手と右足は骨を折られている。そこに体重が掛かり、一心が表情を歪めた。苦悶の表情を浮かべ、呻く一心の姿に小気味よさそうな笑みを仙雄が浮かべる。
「くくくっ、逆さ吊りには耐えたようだが、それと並んで多くのキリシタンを転ばせてきた駿河問いには耐えられるかな?」
 膝の辺りの高さにぶら下げられた一心の髪を掴み、屈み込んだ仙雄が笑う。唇を噛み締める一心の頭を乱暴に突き離すと、どんっと仙雄は一心の肩を蹴りつけた。蹴られた勢いで水平に半回転する一心の尻を再び足蹴にし、ぐるりと一回転して戻ってきた一心の肩を再び蹴る。どすっ、どすっと肩と尻とを交互に蹴られながら一心の身体が何回転もし、徐々に縄がよじれていく。
「さて、手足をまとめて縛って吊るし、縄をよじって回転させるのだったな。まぁ、こんなものか」
 二十回ほど一心の身体を回転させたあたりでそう呟くと、仙雄は足で一心を蹴るのを止めにした。よじれた縄が元に戻ろうとし、それなりのスピードで一心の身体が回転を始める。ぐるぐると視界が回転し、三半器官が回転によって変調を起こし始める。もっとも、奉行所で駿河問いにかけられたキリシタンたちのように、絶叫を上げるようなことにはならなかった。一心が我慢強いというより、仙雄のやり方が間違っているせいで責めの効果が低いのだ。
 噂に聞いた話を元に、仙雄は一心を責めている。当然ながら、正しいやり方にはならない。駿河問いの場合、吊り方は背中側で手足を縛る逆海老吊りとし、背中には重しの石を乗せるのが正しい形だ。細かく言えば吊る高さももっと高いのだが、これは、回転させる時の都合という面が大きいから責めの効果には直接の関係はない。
 逆海老に吊ることで、肩や背骨に痛みを与える事が出来る。単純に逆海老に吊るだけでも、拷問の一つとして成立するほどなのだ。背中の重石は、その逆海老の効果を高めると同時に、回転の勢いを強める働きをする。そもそも、最初に捻る回数からして、仙雄が二十回ほどで止めたのに対して奉行所では五十回以上は回転させるのだから、回転の勢い、時間共に比べものにならない。
「うっ、ぐっ、ぐぐっ。くっ、あっ、う……」
 それでも、回転によって三半器官が痛めつけられ、平衡感覚が狂って吐き気を催す効果は、一心の口から小さな呻き声を絞り出した。ゆっくりとした回転ながらも勢いで反対側に縄がよじれ、ゆらゆらと揺れながら一心の身体が右回りに、左回りに回転を繰り返す。じわり、と、全身に冷たい汗を浮かべ、一心が喘いだ。
「どうだ? 堪えただろう? 転ぶ気には、なったか?」
 回転が止まり、ゆらゆらと揺れている一心へと、仙雄がにやにやと笑いながら問いかける。無言のまま顔を背ける一心の腹へと、仙雄が足をかけた。腹を踏みにじるように足に体重をかけながら、仙雄が声を荒らげる。
「転ぶ気にはなったかと聞いている! 答えろ!」
「あぎっ、ぐっ、ぐああああぁっ。こ、転ぶ気など、ないっ」
 腹を踏みにじられ、身体を押し下げられたせいで折られた右の手足に激痛が走り、一心の口から悲鳴が漏れる。しかし、悲鳴を上げ、苦痛に表情を歪めながらも毅然とした態度で拒絶され、仙雄が憎悪と怒りに表情を歪めた。
「そうか、まだ足りないか。では、もう一度回してやろう。今度は、そうだな、倍の回数捻ってやろう。苦痛も倍増するぞ。いいのか?」
「勝手にするがいい」
「後悔するなよ!」
 自分の言葉に恐怖の色を見せない一心の姿に、仙雄が怒りの色を浮かべて彼の肩を蹴る。肩と尻を交互に蹴りつけ、僅かに一心が顔をしかめる様を眺めて多少は溜飲を下げながら、仙雄はぐるぐると一心の身体を回転させていった。本人の宣言通り四十回転を加えて--しかし、それでも奉行所で行われるものよりも少ないのだが--から更に数回おまけのように蹴りを入れ、最後に一心の髪を掴んで勢いよく回転を始めさせる。さっきよりは格段に勢いよく一心の身体が回転をはじめ、苦悶に彼の表情が歪んだ。口から、押し殺した呻きが漏れる。
「うぐぐぐぐっ、ぐあっ、あっ、ぐうっ、うぐああああっ」
 縄のよじれが解け、回転の勢いで今度は逆によじれていく。回転が徐々にゆっくりになり、今度は逆に回転を始めた。三半器官が回転によって機能を狂わせ、吐き気が胸の奥から沸き上がってくる。苦鳴を漏らし、満面に油汗を浮かべる一心。だが、何度回転を繰り返しても彼の口から転ぶという言葉も許しを乞う言葉もでてはこない。一心が苦しむ姿に喜びを覚えながらも、あくまでも屈服しようとしない彼の姿に不満がつのる。
「強情な奴だな。まぁ、いい。こっちも腹が減ったからな、少し休憩にしよう」
 更に三度ほど同じ事を繰り返し、一心に胃液を吐かせた仙雄が軽く肩をすくめてそう言った。

 その後も、仙雄の一心への責めは幾度となく続けられた。逆さに吊って木刀で殴りつける、水を張った桶に顔を押しつける、関節技で折った腕を踏みにじる、むきだしにした股間を踏みにじる、などなど。日が出てから日が沈むまで、仙雄は食事や排泄などの時間を除いて、ほとんど全ての時間を一心を責め立てることに費やしていた。和尚は朝食や夕食時に仙雄と顔を合わせるたびに、やはりこのようなことを続けるのは良くないのではないか、奉行所に突き出してしまうべきではないか、と、そう仙雄に提案するのだが、仙雄はがんとして聞きいれない。時がたつにつれて和尚は焦燥の色を濃くしていった。
 その間、何人もの村の人間が寺を訪れている。あるものは檀家として和尚に会う為に、またあるものは隠れキリシタンとして一心に会う為に、と、理由は異なるが。訪れた村人たちは、寺の離れから微かに響く呻き声に一様に驚き、和尚に説明を求めた。一心がキリシタンであり、彼を転ばせる為の責めを行っている、などと説明するわけにもいかず、出家修行の為、苦行をつんでいるのだ、と、苦しいいいわけを和尚はひねり出していた。一心がキリシタンであることを知らぬ者はその説明で納得したが、同じく隠れキリシタンである者は想像によって正解にたどり着き、顔を青くしたものである。もっとも、彼らにしても自分がキリシタンであることを隠す必要があり、和尚を詰問したり奉行所に訴え出たりするわけには行かなかった。
 そして、一心がキリシタンであることが発覚してから五日目の朝。破局は訪れたのである。
 寺の裏の竹林で、和尚が首を吊っているのを綾が発見したのだ。御禁制のキリシタンとはいえ、娘婿でもある一心を責め立てていることが、和尚の心に過大な負担をかけたものらしい。奉行所に突き出してしまえば、後味は悪いもののそこまで彼が追い詰められることはなかっただろう。毎日耳に届く一心の呻きが、彼を追い詰め、死を選ばせたのだ。
 朝食前の運動とばかりに一心を吊るし、木刀での乱打を浴びせた仙雄は、姿を見せない綾と和尚に不審をいだき、周囲を探しに出た。そして、彼が見たものは、首を吊って死んでいる和尚の姿と、地面に座り込んで童女のようなあどけない笑みを漏らしている綾の姿だった。宙をさまよう綾の目は、もはや何も映してはいない。責め立てられる一心のあげる連日の呻きは、彼女の心も蝕み、追い詰めていたのだ。父親の死体を目にした時、その衝撃は擦り減った彼女の精神の糸に最後の一撃を与え、狂気の淵へと追いやってしまったのである。
 二人の死を隠蔽するわけにも行かず、奉行所へと届け出た仙雄のことを、采女はとがめようとはしなかった。彼の関心が一心へとのみ向けられており、復讐心にかられて周囲に多大な不幸を撒き散らした愚かな男には何の興味も抱けなかったせいだ。采女が彼に関して感想を漏らしたのは、腹心である大神に向かって苦笑を浮かべながら言った短い台詞だけであった。
「故人曰く、生兵法は怪我の元、だな」
 ともかく、一心の身柄は奉行所へと引き渡され、そこで更なる拷問を受けることとなるのであった……。
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