アテナの受難


「え……!?」
 僅かに声をあげ、目を丸くしてセーラー服姿の少女が立ちすくむ。既にとっぷりと日は落ち、かなりの距離を置いてぽつんぽつんと立っている街灯の明かりと、か弱い月の光を除けば周囲はほぼ完全に闇に包まれている。彼女が歩いていたのは人通りのほとんどない狭い道で、当然ながらガードレールなどという高級なものはなく、車道と歩道の区別も消えかけた白線のみだ。
 その、狭い道を、一台の真っ赤なスポーツカーが暴走としか形容できないような速度で突っ込んでくる。しかも、無灯火で、エンジン周りを改造してあるのかほとんど音もなく、だ。
「っ、きゃああああああああっ」
 立ちすくんでいたのは、ほんの一瞬のこと。すぐ目の前に車が迫っていることに気付き、彼女は反射的に跳躍しようとした。彼女の名は、麻宮アテナ。その運動神経は、普通の人間とは比べものにならない。
 だが、一瞬の驚愕が命取りだった。僅かに身体が浮いた次の瞬間には車に脛の辺りがぶつかり、前のめりにつんのめるような形でボンネットに顔面と胸を強打する。ブレーキを踏んだ形跡すらない車の速度に更に身体が半回転し、天井の辺りに背中をぶつけて宙へとはね飛ばされる。
 キキィッと、タイヤを鳴らして少し走り過ぎた車が止まるのとほぼ同時に、アスファルトの上にアテナの身体が叩きつけられた。両足はおかしな角度にねじまがり、仰向けに転がったアテナの口からくるしげな呻きが漏れる。肋骨にひびが入ったのか、息をしようとするたびに胸全体に鋭い激痛が走る。全身を鈍い痛みが支配しており、指一本動かせない。
「あ、ぐ……あぁ……助け、て……」
 弱々しい、助けを求める声を漏らしながらアテナは何とか視線を動かした。その視線が自分をはね飛ばしたスポーツカーに向けられた瞬間、恐怖と驚愕に目が大きく見開かれる。
 彼女をはね飛ばしたスポーツカーが、ギュルルっとタイヤを鳴らしながら再びバックで戻ってくる。人をはねたとしたら、普通であれば人が降りてくるか慌てて逃げ出すかのどちらかだろう。だというのに、この車の持ち主は再び地面に転がったアテナのことを踏み潰そうと車をバックさせたのだ。偶然の事故などではなく、明らかに殺すことを目的としているとしか思えない。
「ひ、ひぃっ」
 恐怖に表情を引きつらせ、全身の痛みに耐えながらよろよろとアテナは何とかその場に身を起こした。だが、それが精一杯。逃げる間もなく、車の後部とアテナの身体とが激突する。
「きゃああああっ」
 先程よりもだいぶスピードが落ちていたせいか、アテナの身体が宙にはね上げられることはなかった。だが、その代わりに突き飛ばされるようにして道路の上に転がったアテナの身体の上を車が通り過ぎていく。身体のあちこちでボキボキッ、バキバキッと骨の折れる音が響き、脳裏が真っ白になるほどの激痛が駆け抜けた。悲鳴を上げることも出来ず、ただ口と目を大きく開いてアテナが身体を硬直させる。
「ひ、ひ、ぎ……ぁ」
 掠れた悲鳴を漏らし、アテナが道路の上にぐったりと四肢を投げ出す。壊れた人形のようにでたらめな方向に広げられた彼女の手足は、本来なら有り得ない方向にねじまがり、肉と皮膚を突き破って白い骨が突き出している箇所すらあった。
 乏しい明かりの範囲から車が消える。行ってしまったのか、と、激痛のあまり朦朧となりかけた頭でアテナがそう考えた時、再び真っ赤なスポーツカーがその凶悪な姿を現した。後退したのは、この場から去るためではなく加速のための距離を取るためだったらしい。
「----!!」
 アテナの悲鳴は、声にならなかった。無情に彼女の身体の上を通り過ぎたタイヤが、完膚なきまでに肋骨を粉砕していったのだ。砕かれた肋骨の破片が肺に突き刺さり、悲鳴の代わりにごぼりと真っ赤な鮮血がアテナの口からあふれ出す。内臓が負荷に耐えられずに破裂し、腹の中に鮮血が満ちていく。
 もちろん、被害はそれだけではない。既に折れていた手足の上もタイヤは通り過ぎていったのだ。無事だった骨が折れ、関節が増える。既に折れていた部分が砕け、破片となった骨が筋肉に潜り込んで激痛を生む。折れた骨が皮膚を突き破って顔を覗かせる。その激痛に叫ぼうにも、気管に詰まっているのは大量の血だけだ。ごぼごぼと血を吐き出しつづけるアテナの腹の上を後輪が通り過ぎていき、一杯に水の詰まった袋を押し潰すような感じで彼女の口から真っ赤な噴水を吹き上げさせる。
 ぼろ屑のようになったアテナが、既に焦点を失いかけた瞳をさまよわせる。彼女が最後に目にしたもの。それは、自分の頭へとまっすぐに迫ってくる車のタイヤだった……。

 翌朝。付近の住民がぼろ屑のようになった一つの死体を発見し、警察に通報した。しかし、顔を砕かれ、服も血で真っ赤に染まった被害者の身元を特定することすら難しく、未だ犯人は捕まっていない……。
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