カスミとサトシの受難


「きゃっほ~! 海よ~~っ!」
 さんさんと降り注ぐ日差しを浴びて、水着に着替えたカスミが歓声と共に砂浜に走り出る。真夏の直射日光を浴びて熱くなった砂の上であちっ、あちっと小さく声をあげながら嬉しそうに飛び跳ねている彼女へと、苦笑混じりの声をサトシがかけた。
「あんまりはしゃぐなよ、子供じゃあるまいし」
「いいじゃない、せっかく海に来たんだもん、目一杯楽しまなくっちゃ損ってもんでしょ? ほらぁ、サトシとタケシもこっちにおいでよぉっ」
「やれやれ、元気なもんだな。タケシ、行こうぜ」
 ひょいっと軽く肩をすくめると、ビーチパラソルを広げているタケシへと向かってサトシが呼びかける。苦笑を浮かべてタケシが首を横に振った。
「俺はいいよ。ここで荷物の番をしててやるから、お前らは目一杯泳いできな」
「何だよ、つきあいわりぃなぁ。……あ、まさか、お前泳げないのか!?」
「……悪かったな、カナヅチで」
 ふんっとそっぽを向いたタケシへと笑いかけ、サトシが砂浜に出る。足の裏に焼けた砂の熱さを感じて飛び跳ねるサトシのことを苦笑を浮かべて見やりつつ、タケシはビーチパラソルの作る日陰の下に腰を降ろした。一時のバカンス、それを満喫しようとしている彼らに、襲いかかろうとしている悲劇があることに、まだ彼らは誰も気付いていない……。

「ぷっはぁっ。あ~、気持ちいい~~」
 ざぶんと勢いよく海面から顔を出したカスミがぶるぶるっと左右に頭を振って髪から水を飛ばしつつ、嬉しそうな声を上げる。つんつんっと肩の辺りをつつかれ、んっと小さく声を上げて振りかえったカスミが笑顔を浮かべた。ヒトデのような姿をした水ポケモン、スターミーの姿がそこにはあった。彼女が育てているお気に入りのポケモンだ。
「いいよ、好きなだけ泳いでおいで。旅の途中だと、思いっきり泳ぐ機会なんて滅多にないもんね」
 カスミの言葉に、くにゃっと五本の手足を丸めるようにして応じるとすい~っとスターミーが遠ざかっていく。それを笑顔で見送りながら、すうっとカスミは息を大きく吸い込んだ。ざぶんと頭を水の下に沈め、海の中へと潜っていく。
(うっわ~、奇麗~~)
 海底では珊瑚が様々な美しい色あいを見せており、その間を色とりどりの魚たちが泳ぎまわっている。ゆっくりと手足を動かして水の中を進んでいくと、すいっと小さな青い魚が彼女の前を横ぎった。それを視線で追いながら、くすくすっとカスミが小さく笑いを漏らす。
 しばらくそうやって海の底の美しい光景を眺めながら潜っていたカスミだが、いつまでも水の中で息を止めているわけにもいかない。息が苦しくなる前に海面に顔を出そうと、彼女が上昇に移ろうとしたその瞬間、ぶわっと砂が舞い上がって水が濁る。えっ、と僅かに目を見開いた次の瞬間、カスミは右の足首に痛みを感じてびくっと身体を震わせた。
(な、何……!?)
 慌てて自分の足首の方へと視線を向けたカスミが、絶句した。大人が一人では一抱えにするのが難しそうな大きな白い二枚貝が、その殻でがっちりと彼女の足をくわえこんでいる。二枚の貝の隙間、暗くなったその空間にぎょろりとした目のような光があった。
(シェ、シェルダー……!? 何で……!?)
 堅い殻で身を守る、水ポケモンの名を半ば呆然としてカスミは心の中で呟いた。おそらくは、野良ポケモンなのだろうが……。
(そ、そんなこと考えてる場合じゃないってっ。い、息が……)
 まだ、息苦しさを感じるほどではないものの、水の中にいつまでも居られる筈もない。このまま足をくわえこまれていては、遠からず溺れてしまう。
 慌ててカスミは身体を曲げ、自分の足をくわえこんだシェルダーの二枚の貝の間に手を入れた。ん~~っと顔を真っ赤にしてこじあけようとするのだが、二枚の貝はぴくりとも動かない。そんなことをやっているうちに、本格的に息が苦しくなってきた。
(く、苦しい……溺れちゃう……っ!)
 ごぼっと、口から空気の塊を吐き出してカスミが泣きそうな表情を浮かべる。両手で喉元を押さえ、何とか拘束から逃れようと身をよじるカスミ。しかしシェルダーの殻はがっちりとカスミの足をくわえこんでいて、彼女を解放しようとはしない。水中とはいえ重さも結構あるから、足をくわえこまれたまま浮上するというのも無茶な話だ。
 ごぼっ、ごぼごぼっと、カスミの口からいくつもの泡が浮かぶ。息の出来ない苦しさに表情を歪め、身体をくねらせるカスミ。がんがんっと自由に動く方の足でシェルダーの殻を蹴りつけてもみたが、自分の足が痛くなるだけで何の効果もない。
(く、苦しい……空気、空気を……っ!)
 口からあふれそうになる空気を懸命に口を閉じて飲み込み、喉元を押さえてカスミが苦悶する。もっとも、そんなことをしたところで息が楽になる筈もない。がんがんと殴られてでもいるような頭痛と耳鳴りが起こり、目の前が真っ暗になる。ごぼっとひときわ大きな気泡がカスミの口からあふれたかと思うと、彼女の身体が細かく痙攣し始めた。
 と、その時。海の中を泳いでいたカスミのポケモン、スターミーが勢いよく海底へと突っ込んでくる。ぐるぐるとヒトデに似た身体を回転させながら、スターミーがシェルダーの殻に体当たりした。堅い殻に跳ね飛ばされてもかまわずに二度、三度と体当たりを繰り返すスターミー。それでダメージを受けたわけでもないのだろうが、うっとうしくなったのかシェルダーが閉じていた殻を開けてカスミの足を離した。意識を失っているのか、ぐったりとしたままゆっくりと海面へと向かって浮き上がっていくカスミの腹へと体当たりでもするような勢いでスターミーがぶつかり、凄い勢いで海面へと運ぶ。
「うっ、うわっ!?」
 一方、海底でカスミが危機に陥っていることにはまったく気がつかず、海面に浮かべたゴムボートに自分の相棒、電気ネズミのピカチュウを乗せてばしゃばしゃと呑気に水を蹴っていたサトシは、突然目の前に浮上したカスミの姿に泡を食ったような声を上げた。だが、ぐったりとしているカスミの姿に気付いて慌ててゴムボートの上にカスミの身体を引き上げる。
「お、おいっ、カスミっ。大丈夫か!? しっかりしろ!」
「うっ……げほげほげほっ」
 サトシに身体を揺さぶられたカスミが、激しく咳き込みながら飲み込んだ水を吐き出す。けほっ、けほっと咳を繰り返すカスミの顔を心配そうな表情でサトシが見つめた。
「足でもつったのか? 溺れるなんて、お前らしくもない」
「けほっ、けほっ。ち、違うの! 急いで浜に戻りましょ! ここの海底には……きゃあっ」
 何度も咳き込み、水を吐いて新鮮な空気を吸ったせいか僅かに元気を取り戻したカスミがサトシに切羽詰まった表情で訴えかける。だが、彼女が言葉を言い終えるよりも早く、ぐらっと大きくゴムボートが揺れた。下から突き上げられるような感じで大きく傾き、上に乗っていたサトシとカスミ、ピカチュウが海の中へと放り込まれる。
「ごぼっ、がぼごぼがぼ……」
 突然の事態に何かを叫ぼうとしたのか、サトシが海中で大量の泡を口から吐き出す。同じく海の中に投げ出されたカスミが、恐怖の表情を浮かべて視線を周囲に走らせた。
 二枚の貝の間から水を噴き出し、意外なほどの高速で海中を移動するシェルダーの白い影。それを視界の端に留めたと思った次の瞬間、どすっと重い衝撃がカスミの身体を襲った。シェルダーの体当たりだ。
「ごぼっ!」
 悲鳴が、気泡となって海面へと昇っていく。弾き飛ばされたカスミの身体がくるくると回転し、海底の方へと沈んでいく。何とか体勢を立て直そうとするカスミだが、彼女が体勢を立て直すより早くくるんと反転したシェルダーが彼女に襲いかかってきた。二枚の殻が口のように開き、ばくっと今度はカスミの右腕をくわえこむ。腕にシェルダーの重みが掛かり、肘や肩を脱臼したのではないかと思うほどの激痛が走った。その痛みにカスミが大きく口を開き、肺の中に残った貴重な空気を吐き出してしまう。
(だ、駄目……! サ、サトシ、助けて……!)
 腕を挟まれ、海底へと引きずり込まれながらカスミが心の中で悲鳴を上げる。首を捻って視線をサトシが投げ出された方に向けようとしたカスミが、ぎょっと目を見開いた。海底でいくつもの砂煙が上がり、今自分の腕を挟み込んでいるものよりもかなり小型なシェルダーたちが浮かび上がってくる。
(う、嘘……!? こ、ここって、シェルダーの群生地……!?)
 ひゅんひゅんひゅんっと自由自在に海中を進む子シェルダーたち。どすっどすっとその体当たりを受けてカスミが悲鳴を上げた。まだ子供のせいかその勢いはそれほど強くないが、数が多いし、背中や腹に当たるたびに衝撃で空気が押し出されて口から気泡が上がる。
(く、空気……! 溺れちゃうっ!)
 息苦しさに顔を真っ赤に染め、カスミが身悶える。視界の端に、手足を子シェルダーに挟み込まれたサトシが沈んでいく姿が映った。カスミのことを助けようとスターミーがこちらに向かおうとしているのだが、子シェルダーたちが飛びかっているせいで近づけない。
(苦、しい……! あっ!)
 窒息の苦しみに身悶えるカスミの目の前に、ゴムボートに乗せてあったモンスターボールがいくつも沈んでくる。反射的にその一つを掴み取ったカスミが、心の中で強く念じた。
(助けて! タッツー!)
 カスミの投げたモンスターボールの中から、タツノオトシゴ型の水ポケモン、タッツーが姿を現す。すいっと水中を移動したタッツーがその尖った口を親シェルダーの殻の間に差し込み、ぶわっと墨を吐いた。ばくんと殻を開いてきりきり舞する親シェルダー。腕の自由を取り戻したカスミが、懸命に水を掻いて水面へと浮上しようとする。
(空気、空気を……!)
 息苦しさに目の前がまっくらになりそうになる。光る海面が徐々に近づき、そこからカスミが勢いよく顔を浮かび上がらせた。ぶはぁっと大きく息を吐き出し、吸う。
「た、助かっ……ごぼぉっ!?」
 安堵の声を上げかけたカスミの身体が、がくんと水の中に引きずり込まれる。動揺の声を上げるカスミの左足に、早くも墨の目潰しから解放された親シェルダーががっちりと食いついていた。カスミの足を挟んだ殻の隙間から水を噴き出し、一気にカスミの身体を海中に引きずり込んでいく。水の流れのせいでカスミの水着のブラの部分が身体から外れ、胸があらわになった。もっとも、それを恥ずかしがっていられるような余裕はカスミにはない。水流にあおられそうになる身体を懸命に曲げ、自分の足を挟み込んでいる親シェルダーの殻の間に両手を差し込んで何とかこじ開けようと無駄な努力をしている。
(く、苦しい……! お願いっ、離してっ! 溺れちゃうぅっ)
 もがくカスミの右足に、子シェルダーが食らいつく。爪先と太股と、二ヶ所を挟まれてカスミの身体が沈む速度が更に上がった。彼女の腰の辺りをかすめるように泳ぎ去った別の子シェルダーの殻の突起が水着に引っ掛かり、びりっと水着が破れる。頼みの綱のスターミーとタッツーはそれぞれ別の子シェルダーたちにやはり食らいつかれていて、助けにはならない。(挿絵
(く、苦しい……空気……溺れちゃう……!)
 激しい耳鳴りと頭痛。シェルダーの殻の間に刺し込んでいた両手で喉元を押さえ、カスミが身をくねらせてごぼっ、ごぼっと気泡を口から吐き出す。顔が真っ赤に染まり、ぶるぶると全身が痙攣する。上体を折り曲げ、左右に捻り、のけぞらせ、空気を求めてカスミが身悶える。

「ごぼっ、ごぼがぼごぼぼ……!」
 一方、サトシの方も状況はカスミと比べてましとは言えなかった。こちらに向かったのは子シェルダーばかりだが、既に両腕と右足をがっちりとくわえ込まれている。両腕に食いついた二匹の子シェルダー同士をがんがんとぶつけあわせてみたりもするのだが、一向に離れてくれない。シェルダーたちの重みのせいで浮上することも出来ず、海底へと引きずり込まれていく。
「ごぼぉっ!」
 ひときわ大きな気泡を口から吐き出し、サトシが目を大きく見開く。どすっと、正面から子シェルダーの体当たりを腹に受けたのだ。空気が口から押し出され、息苦しさが倍増する。じたばたともがくサトシの背中に再び子シェルダーがぶつかり、肺の中の空気を吐き出してしまったサトシが身悶えた。
(く、くそっ、このままじゃ……! ピカチュウ!)
 息の出来ない苦しさに、顔を真っ赤に染めて身悶えていたサトシが視界の端にピカチュウの姿を認めて叫んだ。水系のポケモンは雷系のポケモンを苦手にしているせいか、ピカチュウの周りにはシェルダーたちは寄っていない。サトシの心の叫びが届いたのか、ピカチュウがぐぐっといったん身体を縮めると、大きく手足を広げながら電撃を放った。
「あばばばばばばばばばばっ」
「ごぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっ」
 海中を電気が駆け巡り、サトシとカスミが身体を伝う電気ショックに身体を痙攣させる。もっとも、電気ショックを浴びたのはシェルダーたちも同じことで、そのダメージはより大きかったようだ。サトシとカスミの二人から離れ、ふらふらと海中を漂い始める。
 ともかく、シェルダーたちから解放された二人が懸命にしびれた身体で水を掻き、海面を目指す。ほとんど同時に海面から顔を覗かせた二人が大きく息を吐き出し、新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。しかし、二人がほっと息をつく間もなく、カスミの身体が再び水中へと引きずり込まれる。
「ごぼぉっ!?」
「カスミ!? うわっ!」
 動揺の声を上げたサトシも次の瞬間には水中に引きずり込まれていた。拡散した電気ショックに一時的に麻痺したものの、すぐに復活したシェルダーたちがかえって怒りに燃えて攻撃してきたのだ。カスミの二体のポケモンたちはやはり子シェルダーに食いつかれて身動きが取れず、ピカチュウも子シェルダーたちの体当たりでボールのようにきりきり舞しながら水の中を二人から離されていく。
 足を親シェルダーに挟まれて沈んでいくカスミ。両手両足を子シェルダーに挟まれてもがくサトシ。
(く、苦しい……! 助けて、溺れちゃう……!)
 びくっ、びくっと身体を震わせながら、喉元を両手で押さえたカスミが口からごぼごぼと気泡を吐き出して身悶える。
(離せっ、離せよっ、こいつっ! く、くそっ、息が……!)
 手足を振りまわし、子シェルダーを何とか振り払おうとサトシがあがく。最初は激しかった動きが徐々に緩慢になり、びくっ、びくっと痙攣するような動きに変わっていく。口から気泡があふれ、顔が真っ赤に染まる。
(サ、サトシ……苦しい、助けて……)
 涙をにじませ、カスミが腕をサトシの方に伸ばす。びくっとその腕が震え、ごぼっとひときわ大きく気泡を吐き出したかと思うと細かい痙攣が全身を覆った。
(カ、カスミ……)
 ごぼごぼと気泡を吐き出しながら、弱々しくサトシがカスミの方に腕を伸ばす。口からあふれる気泡がとだえ、サトシの身体が細かく痙攣した。
 シェルダーたちによって海底へと引きずり込まれた二人のその後の姿を見たものは、誰も居ない……。
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