さくらの受難


「う、うぅん」
 小さく呻いてさくらが目を開けた。ずきずきと全身が痛む。ひんやりとした床の感触。霞がかかったようにぼんやりとしている彼女の視界の中に、自分を見下ろすエリオルの顔が浮かんだ。
「お目覚めですか? さくらさん」
「え? エリオル、くん?」
 がばっと起きあがろうとしたさくらだが、途端に全身に鋭い痛みが走ってうずくまってしまう。目の端に涙をにじませているさくらへと、エリオルがからかうような声をかけた。
「無理はしない方がいいですよ。あちこちに怪我をしているんですから」
「わたし……どうして……?」
 ぼんやりとまとまらない思考を懸命に辿るさくら。
(クロウさんの気配を感じて……知世ちゃんやケロちゃん、月さんと一緒に様子を見に行って……)
 そうだ、その時、黒ヒョウのような獣に襲われたのだ。痛みをこらえ、さくらがエリオルを見上げる。
「みんなは!? 知世ちゃんや……!」
 ケロちゃんや月さん、と言いかけ、さくらは慌てて言葉を呑み込んだ。知世はともかく、ケルベロスや月のことを何も知らないエリオルに話す訳にはいかない。だが……。
「一応、無事ですよ。もっとも、ケルベロスと月には、本の中で眠ってもらいましたが」
 左手でクロウ・カードを収めた本を掲げ、エリオルが笑う。その、目が少しも笑っていない笑みを見てさくらが後ずさった。
「エ、エリオル、くん……?」
「スピネル・サン。ルビー・ムーン」
 静かな、けれど強い意思を込めた口調でエリオルがそう言う。エリオルの傍らに黒ヒョウ--スピネル・サンが姿を現す。大きく目を見開いたさくらの背後で扉の開く軋んだ音が響いた。
「さくらちゃん!?」
「知世ちゃん!?」
 背後から響いた声に、さくらが慌てて振り返る。目に移ったのは、背中から蝶のような羽を生やした男とも女ともつかない顔をした人物--ルビー・ムーン--と、ロープで縛られた知世の姿だった。
「知世ちゃん、大丈夫!? 酷いこと、されなかった!?」
「彼女はゲストですから。あなたが、私の『望み』を叶えてくだされば、傷一つ付けずにお帰ししますよ」
 穏やかな口調でエリオルがそう言う。彼の方を振り返りながらさくらが叫んだ。
「知世ちゃんに酷いことしないで! わたしに出来ることなら、何でもするから!」
「そう願いたいですね。私も、余計な手間はかけたくない」
 そう言いながら、エリオルがぱちんと指を鳴らす。どこからともなく現れたロープがさくらの両手首に巻きついた。次の瞬間、ぐいっとさくらの両腕が上へと引っ張られ、宙吊りになる。
「ほえええええっ!?」
「さくらちゃん!?」
「さぁ、見せてください。『私』の--クロウ・リードの残したものではない、あなた自身の『力』を」
 エリオルがそう言う。だが、そうは言われてもどうしたらいいのか分からず、さくらはむなしく足をばたばたさせることしか出来ない。僅かに落胆したように溜息をつくとエリオルは傍らに控えるスピネル・サンへと視線を向けた。
「スピネル」
「……はい」
 なんとなく嫌そうな表情になって頷くとスピネルが宙吊りになっているさくらの身体の下へと滑り込む。彼の姿がぐにゃりと歪み、鋭く尖った背を持つ拷問器具--三角木馬へと変化した。表情を引きつらせてもがくさくらの身体が木馬の上に落ちる。左右に割り開かれた彼女の足首に、鈍く光る金属の輪が現れた。自分の体重とその輪の重みが全て木馬の背にかかる。(挿絵)
「きゃああああああっ」
 生まれて初めて感じる痛みに、さくらが悲鳴を上げた。縛られたまま、知世が身を乗り出した。
「さくらちゃん!!」
「うふふふふ。痛いのよねぇ、あれ。ね、あなた、さくらちゃんを助けてあげたい?」
 知世の両肩を手で押さえ、ルビー・ムーンがそうささやく。思いつめた表情で知世が首をひねった。
「もちろんですわ!」
「すっごく痛くて辛い目に遭うとしても?」
「代われと言うんなら、代わりますわ!」
「だ、駄目、だよ、知世ちゃん。私なら、平気、だから……ああっ」
 びっしょりと汗を浮かべながら、さくらが知世の方に笑顔を向ける。だが、足首にはまる輪が二つに増え、更に増した痛みに悲鳴を上げてしまう。くすくすと笑いながらルビー・ムーンが手を振った。さくらを宙吊りにしているロープが途中で折れ、延びるとルビー・ムーンの手の中に収まった。
「じゃ、このロープを引っ張って。そうすれば、さくらちゃんの身体が上に持ちあがるから、少しは楽になるでしょう?」
 ルビー・ムーンがそう言うと同時に、はらりと知世を縛っていたロープがほどけて床に落ちる。更に、ルビー・ムーンの手に握られたロープの表面に無数の鋭い刺が生まれた。
「これ、を……」
「痛そうでしょ? これを握ったりしたらお手手はズタズタに……って、ちょっと」
 からかうようなルビー・ムーンの言葉にはかまわず、ためらうことなく知世は刺の生えたロープを両手で掴んだ。鋭い痛みが走り、鮮血が滴る。
「ああん、エリオルー。この子ってば全然ためらわないんだけどー?」
「かまいませんよ。ほら、さくらさん。早く何とかしないと、あなたが苦しむだけじゃなくて知世さんの手が一生使いものにならなくなってしまいますよ?」
 エリオルが意地の悪い笑みを浮かべてそう言う。ほんの僅かとはいえ負荷が軽くなったさくらが、けれどさっきまでよりも辛そうに表情を歪めて知世へと叫ぶ。
「知世ちゃん! 手を離して!」
「大丈夫ですわ、さくらちゃん。待っててくださいね。すぐに、引っ張り上げますから」
 痛みのためか額に汗を浮かべながらも、笑顔で知世がそう言う。少しずつだが、さくらの身体が持ちあがっていく。唇を歪め、エリオルが右手を振った。
「きゃあああああっ」
 さくらと知世、二人の口からそろって悲鳴が上がった。さくらの足首にはまった輪が、一回り大きく、重くなったのだ。持ちあがっていたさくらの身体が再び木馬に押しつけられ、ロープに生えた刺が容赦なく知世の掌を引き裂く。木馬の側面につうっと血が伝い、知世の掌から鮮血が飛び散った。床の上に、小さくはない血溜りが出来る。
「あーん、痛そう」
 ルビー・ムーンが顔をしかめてそう呟き、知世の肩に手をかける。
「諦めちゃえば? そうしたってさくらちゃんはあなたを責めたりしないわよ?」
「これぐらいっ、平気ですわ」
 平気なはずがない。それでも気丈にそう言い放つと知世は刺の生えたロープを自らの腕に巻きつけた。握力のなくなりかけた手では、さくらのことを引っ張り上げることなどできないからだ。服の袖を引き裂き、刺が腕に食い込む。脳天まで突きぬけるような痛みに危うく悲鳴を上げそうになりながらも、懸命にそれを噛み殺し、知世は体重をかけてロープを引いた。
「つぅ……くっ」
「知世、ちゃん……やめてっ。わたしなら、平気、だから」
 さくら自身の体重と大きくなった輪の重さは、とても知世の力で引っ張り上げられるものではない。激しい痛みに表情を歪めながらも、懸命にさくらが訴える。くすりとエリオルが笑った。
「まだ足りませんか? それでは」
 エリオルの言葉と同時に三つ目の輪がさくらの両足に現れる。大きく目を見開き、さくらが数度口を開閉させた。あまりの痛みに悲鳴すら出てこない。
「さくら、ちゃん……!」
 まるで自分が痛めつけられているかのように表情を歪めて--もっとも、さくらにかかった重みは同時に知世の腕にもかかり、刺を肉に食い込ませてはいるのだが--知世が声を上げる。ぎゅっと奥歯を噛み締めると知世は両腕に巻きつけた刺付きのロープを引っ張った。火事場の馬鹿力とでも言うべきか、上がるはずのないさくらの身体が少しとはいえ持ちあがる。
「うっ、く、うっ……ごめん、ごめんなさい、知世ちゃん……!」
 激し過ぎ、声も上げられないほどの痛みが、僅かに和らぐ。ポロポロと涙をこぼしながら謝るさくらに、知世はにっこりと笑顔を浮かべてみせた。両腕に鋭い刺が食い込み、掌に至っては半ば骨が露出するほどの深い傷を負っていることを考えると、並大抵の精神力ではない。
「泣かないでくださいな。さくらちゃんには、ずっと、笑っていていただきたいんですから」
「うーん、美しい女の子同士の友情ねー」
 本当に感心したようにそう呟くルビー・ムーンにエリオルが苦笑を浮かべる。
「友情、ですか? 私にはむしろ……まぁ、どうでもいいことですが。それより、ルビー」
「はーい」
 元気よく返事をしたルビー・ムーンが、足元に転がっているロープを手に取った。口の中で何かを呟くと3m程の長さのロープがバラバラになり、床の上に散らばる。
 十本に分かれたロープが、ぴくりと動いた。鱗を持った足のない爬虫類--蛇に姿を変えて鎌首をもたげる。はっきりと知世の表情が引きつった。
「き、きゃああああっ」
 足元を這いまわる十匹の蛇。女の子であれば悲鳴をあげても無理はないところだが、それに加えて実は知世は蛇の類が大の苦手なのだ。逃げようにも、渾身の力でロープを引っ張っている今の体勢では不可能だ。
「毒はないしー、噛みついたりもしないから大丈夫♪」
「い、いや……やめて……」
「じゃ、逃げれば? そのロープから手を離せば簡単でしょう?」
 ルビー・ムーンの言葉に、ほんの一瞬、知世の表情に迷いの色が浮かぶ。けれど、次の瞬間にはぎゅっと目を閉じ、唇を噛み締めて更にロープを引く腕に力を込めた。あふれ出す血が、元は白かった彼女の服を真っ赤に染めている。
「知世ちゃん! わたしはいいから逃げて! お願い!」
 さくらの叫びに、目を閉じたまま知世が首を左右に振る。するすると床の上を這った蛇が彼女の足首に巻きつき、足を登り始めた。目を閉じていても冷たい鱗の感触にびくんと知世の身体が震えた。
「知世ちゃん……!」
「他人の心配をする余裕が、まだあるんですか。あまり痛めつけすぎて『力』を振るえなくなられても困るんですが……まぁ、いいでしょう。ルビー」
 いつのまにか椅子に座って頬杖をついていたエリオルが、ルビー・ムーンの名を呼ぶ。軽く首を傾げながらルビーは足元から蛇を一匹掴んだ。その手の中で蛇が一本の鞭へと姿を変える。知世が握っているロープと同じように刺の生えた凶悪な鞭だ。
「うふふふふ。女王様とお呼び! なんてね♪」
 一回床でぱしんと鞭を鳴らすとルビー・ムーンが鞭を振るった。顔の前をかすめていく鞭に、思わずさくらがのけぞる。その反動でロープが揺れ、知世の腕に食い込んだ刺が傷を広げた。
「く、うっ」
 知世の口から小さな悲鳴が漏れた。服の下を這う何匹もの蛇の感触に責めたてられ、精神力が限界に近づいている。ただでさえ、足元に血溜りが出来るほどの血を流しているのだ。いつ意識を失ってもおかしくはない。さくらを助けたいという『想い』が、彼女の意識をつなぎとめている。
「さーて、それじゃ、いくわよぉ」
 楽しそうにそう言うとルビー・ムーンが鞭を振るう。鋭い刺の生えた鞭がまともにさくらの身体を捕らえた。服が裂け、鮮血が飛び散る。
「きゃああああっ」
 動いてはいけないと、頭では分かっていても動かずいることなど出来はしない。鋭い木馬の背が、身体を動かしたさくらの股間を容赦なく切り裂く。足の先からポタポタと血が滴り、床の上に小さな血溜りを作った。
 痛みに涙を浮かべるさくらへと、二度、三度とルビー・ムーンが鞭を振るう。その度にさくらの服と肌が引き裂かれ、鮮血が飛び散った。反射的に逃れようと身をよじってしまい、さくらの表情が苦痛に歪む。ほんの僅か、それこそ息をするだけでも股間から脳天まで痛みが突きぬける。
「うぁ……あ…ぁ……」
 半開きになった口から、息とも声ともつかないものが漏れる。意識を失いかけているのか、瞳からは焦点が消えていた。既に服は原形を止めておらず、白い肌の上には縦横に裂傷が走り、血を流している。
「さくら、ちゃん……!」
 知世が懸命にさくらの名を呼ぶ。蛇が身体を這いまわるたびに彼女の服がいびつに膨らみ、身体がびくんと震える。こちらも、そろそろ限界が近い。
 ルビー・ムーンが鞭を振り上げた。風を切るひゅんという音にさくらの表情が恐怖に歪む。
「きゃあああああああああっ」
 故意か偶然か、ルビー・ムーンの振るった鞭がさくらの身体に巻きついた。鋭い刺が肉に突き刺さり、鞭がさくらの身体に張りついた。がくがくと痙攣するようにさくらの身体が震える。
「あら? ひっかかっちゃった」
 かまわずにルビー・ムーンが鞭をぐいっと引っ張ると、突き刺さった刺がさくらの肉を引き裂いていく。あまりの激痛に悲鳴すらあげられずにさくらが激しく身体をのけぞらせた。当然彼女の両腕を吊るし上げていたロープが勢いよく引かれることになる。そのロープの先端を握っている知世の腕を、びっしりと生えた刺で引き裂きながら。
「あ、あああっ。ああああああああああっ」
 幾重にも巻きつけられていたロープが、骨を露出させるほど深い傷を何十と知世の腕に刻みつける。ずるりと鮮血にまみれたロープが知世の手から離れた。ふらりと知世の身体が揺れ、自らの流した血溜りの上へと倒れ込む。
 ロープを引き上げていた力が消え、こちらも意識を失ったさくらの身体が後ろ向きに倒れた。そのままずるずると木馬の側面を上体が滑り、床の上へと落下する。
「あらら。エリオルー、二人とも気を失っちゃったみたいだけど?」
「……少しは、手加減というものを覚える必要が有りそうですね、あなたは」
 左手でこめかみの辺りをもみほぐしつつ、エリオルはそう言うと肩をすくめた。
「まぁ、今日はここまでにしておきますか。時間はまだまだありますから、ね……」
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