「はぁ、はぁ、はぁ……」
 白く煙る息を弾ませながら、一人の全裸の少女が降りしきる雪の中を歩いている。胸元に大事そうにバスケットを抱え、厚く積もった雪を踏みしめながら、道の両脇に立つ民家の窓から漏れる僅かな明かりだけを頼りに彼女は歩く。
「うっ、くっ……」
 びゅううっと吹き抜けた風が、少女の幼い裸体へと雪を叩きつける。無数の刃で身体を切り刻まれているような、強い痛み。全身が真っ赤に染まり、ともすれば意識が遠のきかける。一歩足を進めるたびに、雪を踏みしめる素足に針の山の上を歩いているかと思うほどの痛みが走る。
「う、あ……」
 足がもつれ、積もった雪の上へと少女の身体が倒れこむ。はぁ、はぁと息を弾ませ、寒さのために全身をぶるぶると震わせながら少女はよろよろと立ちあがった。自分の身体の形にくぼんだ雪の上を踏みしめ、吹き付ける風と雪とに逆らいながら更に足を進める。既に唇は真っ青を通り越して黒くなり、手足の指も青黒く腫れあがりはじめていた。
「はぁ、はぁ……」
 道の両脇の民家から聞こえる、楽しげな笑い声。ぎゅっと唇を噛み締め、少女は更に足を進めた……。

「マーサ、あんた、ちょいと炭焼き小屋まで行っておいで。シュミットさんにこいつを届けて、代わりに炭を貰って来るんだ。この寒さじゃ、薪だって足りやしないからねぇ」
 厨房の奥から顔を出した女主人の言葉に、テーブルへと料理を運んでいた少女が一瞬目を丸くする。外は既に吹雪と呼んだほうが正しいようなひどい状態だ。そんな中を歩いて山の中の炭焼き小屋まで行くなど、正気の沙汰ではない。
「なんだい? あたしのいうことが、聞けないって言うのかい?」
「い、いえ、そんなことは……」
 女主人の言葉に、少女が首を横に振る。幼い時に両親を亡くし、天涯孤独の身となった自分を今日まで育ててくれたのが目の前の女主人であることは事実だ。奴隷同然にこき使われていたのも確かだが、それを恨みに思う気持ちは少女にはない。彼女が自分を育ててくれた恩は恩だと、そう思っている。
「では、行ってきます……」
 バスケットを受け取り、軽く一礼して酒場から出て行こうとする少女を、不機嫌そうな表情を浮かべて女主人が呼びとめる。
「ちょいとお待ち。あんた、まさかこの吹雪の中、服を着てくつもりじゃないだろうねぇ? そんなことしたら、服がびしょぬれになるじゃないか。脱いで行くんだよ」
「え……!?」
 女主人の言葉に、少女が流石に目を丸くする。彼女の着ているのは、あちこちにつぎの当たった、お世辞にも上等の服とは呼べない代物だ。むしろ、襤褸切れ寸前といったほうが近いかもしれない。今更濡れたところで大差があるとも思えないし、そもそもこの吹雪の中を裸で歩くなど完全な自殺行為だ。まぁ、この服がどの程度防寒効果を持つかは疑問なのも確かだが、それでも布一枚着ているといないとでは天と地との差があるはずだ。
「なんだい? 何か、不満でもあるのかい?」
「いえ……分かりました」
 不機嫌そうな女主人の言葉に、悲しげに表情を歪めて少女が身につけた服を脱ぐ。ほっそりとした裸身を露わにした少女へと、酒場に集まった客立ちからひゅうっと言う口笛の音や粗野な声が浴びせられ、頬を真っ赤に染めて少女が俯く。きちんと服をたたみ、靴を脱ぐと少女は女主人へとぺこりと頭を下げた。
「では、行ってきます……」
「ああ、さっさと用事を済ませて帰って来るんだよ。余計な寄り道なんかせずにね」
「はい……」
 蚊の鳴くようなか細い声で答えると、少女が扉を開け、暗い吹雪の中へと出て行く。パタンと閉まった扉のほうを見やり、客の一人が女主人のほうへと呆れた声をかけた。
「おいおい、あの娘、絶対途中でくたばっちまうぜ? 何を考えてんだ?」
「何、ちょっとした余興ですよ。さ、皆さん、ちょいと賭けをしやしませんか? あの馬鹿な娘が、どこで死ぬか。掛け金の1割は胴元のあたしが頂きますがね、残りは当たった人たちで分けるってことで。そうそう、賭けに参加した人には、酒を一杯サービスしますよ」
 満面に笑みを浮かべた女主人の言葉に、どっと酒場が沸く。元々賭け事が好きな連中がそろっている上に、一人の人間の生死を賭けの対象とするという背徳的な行為に妙な興奮が生まれていた。
「乗った! 俺は、村外れの一本杉の辺りに五枚だ」
「いやいや、あの娘、かなり頑張ると見た。炭焼き小屋の手前に八枚」
「せいぜい、広場の辺りだろ。四枚だ」
 口々に男たちの間から賭ける声が響き、女主人が一つのテーブルの上に広げた紙に簡単な地図を書いてそこに賭けた人間の名前を記していく。ちゃりんちゃりんと掛け金が山に詰まれ、男たちに酒が振舞われて場が盛り上がる。
「……凄い騒ぎだな。何か、面白いことでもしてるのかね?」
 酒場の扉が開き、仕立てのいいコートから雪を払い落としながら入ってきた男が少し呆れたようにそう問い掛ける。相手の身なりからかなりの上客と見て取ったのか、女主人が愛想笑いを全開にして揉み手をした。
「いえね、旦那。ちょいと面白い賭けをやってるんですよ。よかったら、旦那も一口乗りませんか?」
「ほう、賭けか。それはいいな。私は、賭け事には目がなくてね」
 綺麗に整えられた口髭を捻りながら、男がテーブルへと足を進める。手早く女主人が今までのいきさつを説明し、男が満足げな笑みを浮かべて頷いた。
「なるほど、ここに来る途中、裸の女とすれ違って何事かと思ったが、そういうわけだったのか。面白い趣向だな、私も乗らせてもらおう」
 そう言いつつ懐に手をいれた男が、掛け金の山のそばへと無造作に金貨を指で弾いて飛ばす。ちゃりーんと澄んだ音を立ててテーブルの上で回転する金貨に、ひええっと客たちの間から悲鳴にも似た叫びが上がった。
「私は、ここに賭けるよ。つまり、ここまで戻ってくるということだ。ま、扉を開けたとたんばったり、などということもあるかもしれんがね」
「だ、旦那、一体何者です!? こ、こんなもの……」
 テーブルの上で鈍く光る金貨を指差し、女主人が顔を青ざめさせる。村人にとって金とは基本的に銅貨のことだ。稼ぎのいいものなら銀貨を手にすることもあるが、金貨などまず目にすることなどない。普通の村人が金貨を手にしていようものなら、それはどこかで盗んできたものとみなされることすらある。
「ん? ああ、自己紹介がまだだったな。ヒューバート・クレイモンだ」
「ク、ク、クレイモン伯爵様!?」
「ご、ご無礼を……!」
 男のあっさりとした名乗りに、酒場の中に衝撃が走る。この辺りを支配するのがクレイモン伯爵家、そしてその当主の名が、ヒューバートだ。もちろん、そう名乗ったからといって本人であるという保証などないのだが、身につけた服はごく上等のものだし、無造作に金貨を放るなど貴族でもない限りできはしないだろう。第一、こんな村人相手に貴族の名を詐称したところで、大したメリットがあるとも思えない。貴族や王族の詐称は死罪なのだから。
「ああ、そうかしこまらんでくれ。私は堅苦しいのが嫌いでね。こうして気軽に歩き回るのが趣味なんだ。君たちも、気にせず普通に話してくれればいい。
 ああ、女将、とりあえず酒と何か料理をみつくろってもらおうか」
 苦笑を浮かべながらヒューバートがそう言い、近くのテーブルに腰を下ろす。そのテーブルに座っていた若者がひえっと奇声を上げるのを聞き、ヒューバートは軽く肩をすくめた。
「やれやれ、だな。君、カードはやるかい?」
「えっ、あ、はっ、はいっ」
「そうか、では、少しお相手ねがえんかね。何、賭けの結果が出るまでの暇つぶしだ」
 そう言いつつ、既にヒューバートは懐からカードを取り出している。動揺した若者が助けを求めるように周囲を見まわすが、誰もが腰が引けてしまっていて彼に助けの手を出そうというものはいない。
「お遊びだよ、君。そう緊張せんで、気楽にしてくれ」
「は、はぁ……」
「女将、悪いが両替を頼む。チップが要るんでな」
 楽しげに笑いながら、ヒューバートが銀貨を放る。周りの困惑などまるで気にもとめず、彼はそばにいた一人をディーラーに指名すると若者相手にポーカーをやり始めた。

 びゅううううっ、ごおおおおぉ……。
 雪混じりの風が、不気味な唸りを上げながら容赦なく少女の身体を叩く。山道に入り、既に周囲は真っ暗だ。指先が痺れ、既に感覚が半分ない。全身を炎で炙られているかのような熱さと痛み……雪を踏みしめ、足を進めるたびに脳天まで突き抜ける激痛が走る。
「うっ、くっ……う、あ、くうぅっ……はぁ、はぁ、はぁ」
 吐き出す息が自分の顔に当たり、僅かにぬくもりを伝える。視界がぼんやりと霞み、自分がどこを歩いているのかさえ定かではない。しかし、それでも少女は懸命に両足に力をこめ、雪の積もった山道を歩いていく。雪混じりの風が少女の身体から容赦なく熱と力とを奪い、小さく悲鳴を上げて少女は雪の中に倒れ伏した。
「うっ、ううう……」
 我知らず涙が溢れ、頬を伝う。冷たいはずの雪が、なぜか暖かく感じられた。このまま死ぬのかも、という思いが、ふと心の中に浮かぶ。
「炭、を、持ってかえら、ないと……」
 自分でも声になったかどうかよく分からない呟きを漏らし、少女が力を振り絞って雪の中から立ちあがる。身体についた雪を振り落とすこともせず、弱々しい足取りながら少女は再び歩き始めた。

「ふむ、君、なかなか強いじゃないか」
「い、いえ、その、すんません……」
「何を謝る? 私は、別に賭けに負けたからといって怒るほど心は狭くない。元々、弱いんだよ、賭けは。下手の横好きという奴だな、はっはっはっはっは」
 チップとして使っている銅貨をざらっと相手のほうに押しやりながら、ヒューバートが笑う。既に若者の前には結構な量の銅貨が詰まれていた。
「さて、つぎのゲームと行こう。君、遠慮せずにきたまえ。稼ぎどきだぞ。うん?」
「は、はぁ……」
 困惑を露わにする若者の反応など気に求めず、ヒューバートは楽しげに笑う。ぱちぱちと暖炉で炎が踊り、外の吹雪の寒さも酒場の中までは入ってこない。温かい室内に、ヒューバートをはばかってか遠慮がちではあるものの酒を酌み交わす男たちの楽しげな笑い声が響く。

「どう、も、ありがとうございます……では、失礼します」
 ずっしりと重そうな炭の束を背負い、ふらふらと不安定に上体を揺らしながら少女が頭を下げる。炭焼き小屋の主が困ったような表情を浮かべた。
「本当に、大丈夫かね? この吹雪だ、無茶はせずに一晩泊まっていけばいい。そんなざまじゃ、途中で凍死するのが落ちだぞ?」
「いえ、大丈夫、です。お世話に、なりました」
「むう……」
 中に入って暖まっていけという言葉にも耳を貸さず、頑として自分の意志を曲げない少女に困惑と腹立たしさとが入り混じった複雑な表情を浮かべて髭の男が唸る。
「しかし、なぁ……」
「本当に、大丈夫、ですから。では……」
 もう一度頭を下げると、男の制止を振りきるように少女が彼に背を向けて山道を下り始める。はぁ、と、大きな溜息をつくと男は小屋の中に戻った。
「くっ、う、あ……ううぅっ」
 ずっしりと肩に背負い紐が食い込む。ますます激しさを増す雪が、身体に当たるたびに激痛が走り、背中から風が吹くたびにバランスを崩してよろめく。既に手や足の感覚はなく、身体の内側から炎であぶられているような熱さと痛みが全身を満たす。
 背負い紐にこすられた素肌が破け、血が滴る。身体の上を伝う血の熱が、雪に冷えきった身体にはきつい。まるで熱湯を浴びせられているのでは、と錯覚するほどだ。背負い紐を手で押さえようにも、青黒く膨れ上がった指にはもはや感覚がまるでなく、動かない。
 ふらり、と、少女の身体が揺れ、雪の中に倒れこんだ……。

「そろそろ、死んだかな?」
「いやいや、もうとっくの昔だって。ま、明日の朝になったら見に行こうぜ。その辺で、雪に埋もれてるよ」
 酒を飲みながら交わされる、そんな会話。別の男を相手にまだポーカーを続けていたヒューバートが肩越しにそちらを振りかえって苦笑を浮かべた。
「途中で死なれると、私の賭け金はぱぁだな。まぁ、別に負けてもかまわんのだが」
「あの、その、伯爵様。伯爵様は、本当に帰ってくると思ってらっしゃるんですか?」
「帰ってきたら面白いとは思ってるがね。意外と、根性だけで帰ってきそうな気がするんだよ、私は」
「はぁ、そんなもんですか……」
「ま、結果は神のみぞ知る、という辺りかな」
 楽しげな笑い声を上げると、ヒューバートは再びカードに視線を戻した。

「うっ、うう……」
 浅く雪の積もった下から弱々しい呻き声が響き、もぞりと動いたかと思うと雪ノ下から少女が立ちあがる。はぁ、はぁと白く煙る息を弾ませ、少女が一歩を踏み出し……そのままバランスを崩して雪の上に再び倒れこむ。
「かえら、ないと……私の、居場所に……」
 ずず、ずずずとゆっくりと少女の身体が雪の上を這う。うわごとのように呟きながら、どこにそんな力が残っていたのか少女が立ちあがった。相変わらずの吹雪の中、よろよろと数歩進んでは倒れ、倒れては起きあがりを繰り返しながら少女が進んでいく。

「おっと、ストレートフラッシュ!」
 嬉しそうな声を上げ、ヒューバートが手札を開く。あちゃっと小さく声を上げ、彼の相手をしていた男が天井を振り仰いだ。
「いやいやいや、たまにはこういうのもいいもんだね」
 ざざっと相手の前からチップを引き寄せ、満面の笑みを浮かべるヒューバート。もっとも、今回の勝ち分を差し引いても、彼が吐き出したチップはかなりのものだ。まぁ、彼にしてみれば痛くも痒くもない金額なのだろうが。
「さて、では次の……おや?」
 勝負を、といいかけたヒューバートがふと視線を扉のほうに向ける。
「今、そっちで何か音がしなかったかね?」
「は? いや、気がつきませんでしたが……」
 扉のそばのテーブルを囲んでいた男たちが顔を見合わせて首を傾げる。ふむ、と小さく呟くとヒューバートは席を立ち、扉のほうへと歩み寄った。
「まぁ、雪の塊が落ちただけ、かもしれんがね」
 そう呟きつつ、ヒューバートが扉を開ける。吹き込む雪と風に顔をしかめたヒューバートが、視線を足元へと落として楽しげな笑い声を上げた。
「はっはっは、これは凄い。本当に帰ってきたぞ、この娘」
「ええっ!?」
 がたがたがたっと男たちが立ちあがる。よっと軽く掛け声を上げ、ヒューバートは雪まみれの少女の身体を引き起こした。
「ほら、この通り」
「本当かよ……」「信じらんねえな……」「うっわあ……」
 まさか生きて帰ってくるとは夢にも思っていなかった男たちが口々に驚きの呟きを漏らす。くっくっくと楽しそうに笑いながら扉を閉めると、ヒューバートはどさりと床の上に少女の身体を放り投げた。小さく呻く少女のことを見下ろしながら、ヒューバートが肩をすくめる。
「さて、見ての通り彼女は帰ってきた。ちゃんと炭も背負ってるから、途中で引き返してきたわけでもない。賭けは私の勝ちということでいいかな?」
「え、ええ、そりゃまあ……」
「では、それはそれとして……女将、一つ相談があるんだが」
 突然話を振られ、女主人がぎょっとしたような表情を浮かべる。
「な、何でしょうか?」
「この娘、私にくれんかね? なかなか面白い娘だ、気に入った」
「は、はぁ、それはもちろん、伯爵様がそうお望みでしたら、私はかまいませんが……」
 いきなりの提案に、頭がついていかないのか女主人が歯切れの悪い答えを返す。
「しかし、何か役に立つような娘ではございませんよ? 伯爵様にご迷惑をおかけすることになるのではないかと思いますが……」
「なぁに、別に何か仕事をさせようというわけじゃない。娘へのいい土産になると思ってね」
「娘さん、ですか?」
「ああ。娘に何かいいお土産を持って帰ってきてくれるよう頼まれていたんだが、この娘みたいな馬鹿がつくぐらい真面目な頑張り屋というのは娘の好みにぴったりなんでね。いい『遊び相手』になると思うよ」
 両手両足を凍傷のためか青黒く腫れあがらせ、意識を失っている少女の身体を抱えたまま、楽しそうにヒューバートは笑った。どこか含みのある表情で……。
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