第一話 慮囚

 はぁ、はぁ、はぁ。
 自分の息遣いが、異常なほど大きく聞こえる。心臓の鼓動が激しい。ちょっとでも気を抜けばそのままその場へと倒れこみそうになる。それでも、走ることを止める訳にはいかない。
 氷のように冷たい雨が、容赦なく体温を奪っていく。肌が微かにぴりぴりと痛む。長きに渡る大気汚染によって生じた、酸の雨。
 何度目かの、角を曲がる。あと少し。あと少しで、安全な場所まで逃げ延びられるはずだ。
 そう、次の角を曲がれば……。
 だが、ふっと安堵しかけた彼女の心は、次の瞬間凍りついた。
 角を曲がった瞬間に、正面から強い光が浴びせられる。その光の中に浮かびあがるいくつもの人影を認め、彼女はがっくりとその場へと膝をついた。
「残念だったな。ここがお前さんの終着駅だ」
 嘲けるような男の言葉に続いて、しゅっという微かな音が響く。左腕にちくりとした痛みを感じた瞬間、急速な脱力感が全身を包みこんだ。
(パラライザー……!)
 意識を失い、その場へと倒れこんだ彼女を、右手に麻痺銃を構えた男がにやにやと笑いを浮かべながら見下ろしていた……。

「う……」
 全身を包む倦怠感に、小さく呻いて彼女は目を開けた。灰色の床がまず、目に飛びこんでくる。どうやら、椅子に座らされた上で両手両足、それに胴体の辺りをベルトで拘束されているらしい。幸いと言うべきか、衣服は身に付けたままだ。 (挿絵)
「ここ、は……?」
「おやおや、やっとお目覚めかい?」
 小さな呟きに、嘲けるような男の声が答える。はっと顔を上げた彼女の視界に、室内にもかかわらず茶色のコートを羽織った男の姿が入った。コートはよれよれ、不精髭を生やしたいかにもだらしなさそうな雰囲気をしているが、ただ一つ、眼光だけが異様に鋭い。
「先に自己紹介を済ませとこうか。インスペクターの、東城だ。長い付き会いになるかどうかは、嬢ちゃん次第だがね」
 そう言いながら、東城と名乗った男が彼女の顎を掴んで仰向かせる。
「さて、いつまでも嬢ちゃんだあんまりだな。名前を教えてもらおうか?」
「……」
「おいおい、聞きたいことは山ほど有るんだぜ? 名前ぐらい素直に教えてくれてもいいじゃねーか。こっちとしても、建前としちゃ余計な手間は省きたいんでね」
 ちっとも残念そうに思っていない--いや、それどころか、むしろ歓迎しているような口調で東城がそう言う。ぞくりと背筋に走る悪寒に、思わず彼女は身体を震わせた。
「建前……?」
「俺は元は警察に居たんだがねぇ。被疑者を痛めつけるのが三度の飯よりも好きっていう性格のせいでクビになっちまったのさ。ま、今の仕事は、そういう意味じゃ俺向きだし、後悔なんてちっともしてないんだけどな」
「要するに、変態ってことでしょ!?」
 思わずそう叫んでしまった彼女に、東城が楽しそうな笑みを浮かべる。
「おーおー、いいねぇ。こういう状況になると、大抵の奴は萎縮しちまうもんだ。元気があるってのは結構なことさ。その分俺も楽しめる、ってことだからな。
 とはいえ、名前ぐらいであんまり手間をかけられるのもそれはそれで面倒なんだが。どうだい? さっさとしゃべって楽になってみちゃ?」
 くつくつと笑いながら、東城がそう尋ねる。ふんと彼女は顔を背けた。
「コーポの人間に、話すことなんて何もないわ。殺すならさっさと殺しなさいよ!」
「そんなもったいない真似、するはずがないだろう? あいにく、今度のテロに参加した連中の中で生きたまま捕まえられたのはお前さんだけでな。殺しちまったら、貴重な情報源が居なくなっちまう。
 そうそう、自殺しようなんて馬鹿なこと、考えない方がいいぜ? 救命措置は万全だからな、痛い思いをするだけ損ってもんだ」
「……分かってるわよ」
 感情を無理矢理押し殺したように彼女がそう答える。そっぽを向いたままの彼女の顎に手をかけ、東城は強引に自分の方に彼女の顔を向けさせた。
「結構。さて、それじゃ、名前を聞かせてもらおうか?」
「素直にしゃべるとでも思ってるの? 言っておくけどね、私は死ぬのなんかちっとも恐くないんだから!」
「ふぅむ。しかたないな」
 軽く肩をすくめると、東城はいったん彼女の側を離れた。部屋の片隅に置かれていた端末を操作する。画面に表示された文字列を眺め、彼は苦笑を浮かべた。
「やっぱりねぇ。嬢ちゃん、体質改造を受けてるだろ。自白剤を打たれたら、即座に強度のアレルギー反応を起こして死ぬように」
「……」
「ま、当然と言えば当然だよな。どんな任務を受けるにせよ、捕まる可能性は否定できないわけだし、そうなれば当然厳しい取り調べを受ける。仲間の名前やらアジトの場所やら、ぺらぺらしゃべられたら困るもんなぁ」
 クックっクと楽しそうに笑いながら東城がそう言う。端末の置かれた机のひきだしを空け、無骨なペンチを手に取ると彼は再び彼女の方へと向き直った。
「さて、となると、こちらとしては薬物に頼るってわけにもいかないってわけだ。いささか古典的な方法になるのも、やむをえないよなぁ」
「拷問? 無駄よ。どんなに痛めつけられたって、私は仲間を売ったりしないわ」
 そう言いつつも、微かに声が震えている。唇を笑みの形に歪めると東城は左手で彼女の右手の人指し指を掴んだ。爪をペンチで挟みこむ。
「そうかい? すぐに前言撤回することになるんじゃないか?」
 嬲るような口調でそう言いながら、僅かに東城が力を込める。爪を強く上方に引かれ、指先から脳天まで鈍い痛みが走りぬけた。漏れそうに鳴る悲鳴を懸命に噛み殺し、彼女は東城の顔を睨みつけた。
「っ……馬鹿に、しないでっ」
「口ではなんとでも言えるからなぁ。行動で示してもらわないとね、っと」
「アアアアアッ」
 東城が一気に爪を引き剥がす。大きな悲鳴がさして広くもない室内に響き渡った。
「とりあえず、名前を教えてくれたら止めてやるぜ? 別にその程度なら、話したところで害はないだろう?」
「う、くぅ……あなたに、話すことなんて、何もないわ」
 びっしょりと汗を浮かべ、荒い息を吐きながら彼女がそう答える。些細な情報でも漏らしてしまえば、そのままずるずると次々に情報を漏らしてしまうかもしれない。この程度なら平気、あと少し、あと少しだけなら、と。
 それに。どんなに意味のない情報に見えても、情報は情報だ。こちらの思いもかけないところで糸が繋がってしまうかもしれない。秘密を守るには、何も言わないに限る。
「強情なお嬢ちゃんだな。ま、気が変わるまで俺は続けるつもりなんだがね、っと」
 中指の爪をペンチで挟みこみながら、東城が笑う。彼女はぎゅっと目を閉じ、痛みに対して身構えた。
「ウアアアアアッ」
 悲痛な悲鳴が、再び響いた。全身にびっしょりと油汗を浮かべ、ぜぇぜぇと大きく肩を上下させる。楽しそうな笑みを浮かべながら東城は薬指の爪も一気に剥がした。
「アアアアアアアアアッ」
 ぽろぽろと、大粒の涙を流しながら身悶える。ずきん、ずきんと、心臓が脈打つたびに指先に鈍い痛みが走る。
「どうだ? そろそろ、気は変わったかい?」
「無駄、だって、言った、でしょう?」
「あんまり強情を張ると、馬鹿をみるぜ?」
 そう言いながら、東城が小指の爪を剥がした。悲鳴と共に彼女が身体を硬直させ、ぶんぶんと激しく首を左右に振る。汗と涙が飛び散った。
「そら、早く話して楽になっちまえよ」
「ウアッ、アアアアアッ、アアッ。い、痛いっ」
 爪を剥がされ、剥き出しになった指先の肉へとぐりぐりと東城が指を押し付ける。彼女のあげる悲鳴に、楽しそうに東城は目を細めた。
「アッ……! ウゥ……ハァ、ハァ、ハァ」
 不意に、東城が彼女の側を離れた。いぶかる余裕もなく、肩をあえがせながら彼女は荒い息を吐いた。指先に付いた血を舐めながら、東城が机のひきだしから小箱を取り出す。
「な……何をするの?」
「何、別にたいしたことじゃあないさ」
 怯えた表情を浮かべる彼女の左手を掴むと、東城は指の肉と爪の間に短い棒を刺し込んでいく。先が尖っているせいでその度に痛みが走るが、刺し込む深さ自体はそれほどでもない。だが、それが逆に彼女の不安感をかきたてる。
「さぁて、と。素直になるつもりは、まだ起きないのかな?」
「……話すことなんて、何もないわ。さっさと、殺しなさいよ!」
「殺して欲しいのか? 素直になれば、ま、考えてやってもいいがな。そんなもったいないことはしたくないってのがこっちの本音だよ。
 さて、それじゃ、始めようか」
 カチッと音を立ててライターに火をつけると、東城がその炎を見せつけるように彼女の目の前にかざす。何をされるのか察しが付いたのか、はっきりと彼女の表情が恐怖に歪んだ。
「あ……あ……あ」
「止めて欲しいかい?」
 嬲るようにゆっくりと炎を下方に下げながら東城がそう問いかける。頷けば、何でも話すと言えば、もしかしたら止めてくれるかもしれない。一瞬、そんな考えが彼女の脳裏に浮かんだ。
「や……」
「や?」
「止め……なくていいわよ! 仲間を売るぐらいなら、死んだ方が数万倍ましだもの!」
 むしろ、自分自身を叱りつけるように彼女がそう叫ぶ。薄く笑うと東城が棒に火を付けた。
「ヒイイィィァアアアアアアッ、イヤッ、イヤアアアアアアァァァッ」
 甲高い悲鳴を上げ、ぶんぶんと激しく彼女が頭を振る。油でも染み込ませてあったのか、意外なほど大きな炎が、じりじりと彼女の指先を焼いていく。
「アアアアアアアアアッ、ヒイイイイイイイイイッ」
 次々と、棒に火が付けられる。東城が薄く笑いを浮かべて見守る前で、彼女は半狂乱になって絶叫を上げ続けた。肉の燃える嫌な臭いが周囲に立ちこめる。
「アアッ、アアアッ、アアアアァァ……ヒヤァァァッ」
 炎が燃え尽きるのと同時に、がっくりと彼女の首が折れた。はっはっはと短く息を吐いている彼女の前髪を掴み、東城が強引に仰向かせる。
「さて、そろそろ、俺の質問に答えてもらおうか? お嬢ちゃんの名前は何ていうんだい?」
「う、あ……。マ……マ、ヤ……」
 涙をこぼしながら、彼女が搾り出すようにそう呟く。満足そうに頷くと、東城は一見優しそうな笑顔と口調で更に問いかけた。
「ふぅん、マヤ、ね。それじゃ、マヤちゃん。あんたの仲間の名前と居場所も、ついでに教えてもらえるかな?」
「そ……それは……言えないわ」
 怯えたように彼女が視線を逸らす。さりげなく東城が焼けただれた彼女の左手へと自分の手を重ねた。びくっと彼女が身体を震わせる。
「い、痛っ……!」
「人間、素直なのが一番だぜ?」
「だ、駄目っ。仲間を売るような真似は……ああっ」
 焼かれた指先を、椅子へと押しつけるようにしながら東城が笑う。彼女の身体が苦痛に震える。
 と、その時。
 耳障りなアラームが、東城のコートのポケットで響いた。小さく舌打ちをして東城がいったん彼女の側を離れる。彼女に背を向け、ポケットから取り出した通信機へと何やら言っている東城の背中をじっと睨みつけながら、痛みと悔しさとが入り混じった涙を流してぎゅっと彼女は唇を噛み締めた。ほんの些細なこととは言え、苦痛に負けて情報を漏らしてしまった自分が情けない。
「……やれやれ。野暮用が出来ちまったか」
 腹ただしげにそう呟きながら、東城が通信機をポケットに戻す。再び彼女の方へと向き直りながら東城は軽く肩をすくめてみせた。
「続きは、また今度だ。その時までに、素直になってってくれることを祈ってるがね」
「……仲間は売らない。絶対に、よ」
「ふ、ん。俺に話すことは何にもないって言いながら、名前は教えてくれたのに?」
 からかうような嬲るような、そんな東城の言葉に彼女がぎゅっと唇を噛み締める。苦笑を浮かべながら、東城は彼女の腕をまくり上げると肌へと無針注射器を押し当てた。しゅっという軽い音と共に体内へと即効性の麻酔薬が注入される。
「私、は……仲間を……売ったり……しない、わ」
 がっくりと首を折り、眠りに落ちた彼女に東城は楽しそうな笑顔を浮かべた。
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