花村紅緒の受難


 薄汚れた白い壁に囲まれた、狭い取り調べ室。年代ものの大きな机に一人の少女が座らされており、その正面にはこめかみに青筋を浮かべた男が座っている。更に、机の周囲を取り囲むように三人の男立ちが配置されていて、室内の空気はピンと張りつめていた。
 窓の外では、大粒の雨が音を立てて降り注いでいる。そのせいもあるのか部屋の中は薄暗く、いやがおうでも陰惨な空気をかもしだしていた。だが……。
「やーねぇ、雨なんかふっちゃって。もうつゆかしらねぇ」
 窓の外を向き、のんきな口調で少女がそう言う。緊張感のかけらもないあっけらかんとしたその言葉に、彼女の正面の男のこめかみにぴくっともう一本青筋が浮かんだ。
「いいかげんにせんか! 名前と職業は!?」
 ばんっと手のひらを机に叩きつけて男がそう怒鳴った。周りの男たちが思わず首をすくめたほどの怒号だが、肝心の少女の方はのんきな表情で彼の方に顔を向ける。
「花村紅緒。冗談社の編集者。ねぇ、おじさん。なんで私こんな所に連れてこられた訳?」
「お、お、おじさん!?」
 こめかみをぴくぴくと震わせ、男が席を立ちかける。慌てて彼の横に立っていた男が彼の方を押さえた。
「と、取り調べ官、落ち着いて」
「む、むぅ……で?」
 不機嫌そうに椅子に座り直すと、取り調べ官が紅緒に視線を向けた。軽く紅緒が小首を傾げる。
「で?」
「なんでここに連れてこられたと思ってるんだね!?」
 ばんっと、再び取り調べ官が机を叩く。けらけらと笑いながら紅緒が手を振った。
「やだぁ、それって私が聞いたことじゃない。ね、何で?」
「き、貴様っ、本官を侮辱するか!?」
「と、取り調べ官殿!!」
 椅子を蹴って立ちあがった取り調べ官を、必死になって警官が押さえる。ふー、ふーっと荒い息を何度か吐くと、取り調べ官はびしっと紅緒を指さして怒鳴った。
「貴様はっ! 反政府主義者どもの仲間なんだろう!? 証拠は上がってるんだ! 素直に仲間の名前と居場所を白状しろ!!」
「はんせーふしゅぎしゃ?」
 きょとんとした表情で、オウム返しに紅緒が問い返す。彼女の顔へと突きつけた指をぷるぷると震わせ、取り調べ官が顔を真っ赤にする。
「えぇいっ、まだしらを切るか! ご、拷問にかけてもよいのだぞ!?」
「わぁ、拷問だって。どんなの?」
 顔の前で手を打ちあわせ、きらきらと好奇心で瞳を輝かせながら紅緒がそう尋ねる。意外な反応に、一瞬気勢を削がれたのか取り調べ官が間の抜けた表情を浮かべた。
「う、うむ。た、例えばだなぁ……逆さ吊りにして鞭でぶったり、爪を剥いだりするのだ」
「うわぁ……変態だぁ」
 すすっと上体を遠ざけるようにしながら紅緒がそう言う。ぶちっと、取り調べ官の頭のどこかが切れた。
「ええい! 許さん、もう絶対許さん。拷問だぁ!」
「と、取り調べ官殿、まずいですよ、いくらなんでも。拷問は禁止されて……」
「うるさい! うるさいうるさいうるさ~い! 反政府主義者に人権はな~い!」
 警官に制止され、取り調べ官が大声でわめく。辟易しつつなんとか彼をなだめようと苦労している警官が、助けを求めるように紅緒の背後を固める同僚たちに視線を向ける。その視線を受け、警官の一人が紅緒の側に歩み寄ってささやきかけた。
「お嬢ちゃん。あんまり意地を張らないで、知ってることは全部しゃべっちゃった方がいいぞ? あの調子じゃ、取り調べ官殿は本気で拷問をやりかねんからなぁ」
「そんなこと言ったって……私、本当に何にも知りませんよ?」
「えぇい、何をこそこそしゃべっておるか! おい、紅緒とか言ったな! 貴様、机の上に手を広げろ!」
 警官を振り払い、取り調べ官がそう怒鳴った。軽く首を傾げながら、紅緒が言われたとおりに右手を机の上に置く。広げられた人差し指と薬指を持ち上げると、取り調べ官はそこに鉛筆を挟んだ。そして、右拳をどんっと紅緒の指へと振りおろす。
「いったぁ~いっ。ちょ、ちょっとなにすんのよ!?」
 俗に『鉛筆折り』と呼ばれる拷問だ。もっとも、実際に拷問としてやるときは拳を叩きつけるのではなくて手のひらを使ってぐりぐりと押し付け、指の骨を痛めつけるか、もしくは床の上に手を広げさせ、同じように鉛筆を挟んでから足で踏みつける。つまり、充分に手加減をしている訳だが、それにしても痛いことは痛い。慌てて手を引っ込め、抱え込みながら紅緒が取り調べ官をにらんだ。
「さぁ、痛い目にあいたくなければ素直に仲間のことを……!?」
 台詞の最中で、取り調べ官は言葉を途切れさせた。ぱぁんと景気のいい音を立てて紅緒が彼の頬に平手打ちを見舞ったのだ。
「冗談じゃないわよ! 知らないって言ってるでしょ!?」
「き、貴様……ええいっ、公務執行妨害と警官侮辱罪の現行犯だぁ! ひっつかまえろ! 拷問にかけるのだぁっ!」
 完全に逆上し、取り調べ官がそうわめく。一瞬顔を見合わせ、しかたないなぁっという感じで警官たちが紅緒の両腕を掴んだ。

「は~な~せ~、こらーーっ。乙女を逆さ吊りにするなんて何考えてんのよっ」
 両腕を後ろにまとめて縛られ、足首にロープをかけられて逆さまに吊るされた紅緒が大声でわめく。目の周りに青あざを作った取り調べ官が、椅子に座って憮然とした表情を浮かべた。彼の背後に並ぶ三人の警官たちも、頬やら目の周りやらにあざをこしらえている。
「何が『乙女』だ。猛獣のように暴れおって」
「警官横暴だ~っ、人権侵害だ~っ、訴えてやるぅ~っ」
「えぇいっ、うるさいっ。いっそ裸にひん剥いてやろうか」
 取り調べ官が青筋を浮かべて怒鳴る。その台詞に紅緒がますます声を大きくした。
「いやーっ。エッチ、助平、変態っ。犯されるぅ~」
「黙れというのが分からんのかっ。ええい、さっさと始めろっ」
 取り調べ官の怒声に、手に手に竹刀をもって警官たちが吊るされた紅緒の周囲に散る。さすがに僅かに紅緒が脅えた表情を浮かべた。
「ちょ、ちょっと……か弱い乙女に何するつもり……?」
 紅緒の言葉には答えず、警官たちが竹刀を振り上げ、吊られた紅緒の身体を滅多打ちにし始める。最初は同情的だった彼らも、取り調べ室での紅緒の大暴れに怒りを覚えたらしい。
「きゃあぁっ、痛いっ、ちょっと、本当に痛いってばっ。やめてよぉっ」
 腹、背中、胸、太股。三人がかりで滅多打ちにされ、紅緒の身体が前後左右に揺れる。服の上から、しかも竹刀での打撃だが、それでも結構痛いらしく派手に紅緒が悲鳴を上げた。
「痛いっ、いたたっ、痛いってばっ。やめてぇっ。きゃあああっ」
「よしっ、やめっ」
 取り調べ官が怒鳴り、さっと警官たちが離れる。ぎしぎしと縄を鳴らしながら前後左右に揺れていた紅緒の身体が止まるのを待ち、取り調べ官が声をかける。
「どうかね? 素直にしゃべる気になったかね?」
「だ、だからぁ……私は何にも知らないって言ってるでしょ!? きちんと調べれば分かることなんだからっ」
 全身に走る鈍い痛みに顔をしかめつつ、紅緒がそう言う。彼女としてはそう言うしかないのだ。本当に、何も知らないのだから。だが、その台詞をしらを切ってると判断した取り調べ官は舌打ちをしつつ椅子から立ちあがった。警官の一人から竹刀を受け取り、青眼に構える。意外に、と言っては悪いのかもしれないが、その構えはなかなか堂に入ったものだ。
「キェェェッ」
 気合とともに床を蹴り、鋭い突きを吊られた紅緒の水月へと叩き込む。急所を的確に突かれ、息を詰まらせて紅緒が縛られた身体をくねらせた。
「う、げぇっ、げほげほげほっ」
「さあ、言え! 言え! 言うのだぁっ!」
 激しく咳込む紅緒へと、取り調べ官が容赦のない攻撃を加える。打たれるたびに大きく身体を揺らし、紅緒が悲鳴を上げた。
「きゃああっ、きゃあっ、きゃああっ。痛い、痛いってばっ」
「白状すれば止めてやるっ。さぁ、吐けぇっ」
「あうっ、うああっ、きゃあああっ」
 竹刀の肉を打つ鈍い音、取り調べ官の怒号、そして、紅緒の上げる甲高い悲鳴。
「あぐぅ……」
「取り調べ官殿、もうその辺で……!」
 散々打ち据えられ、紅緒がぐったりとしてきたのを見て警官が取り調べ官を制止する。ちっと舌打ちをすると竹刀を床に投げ捨て、取り調べ官は紅緒に背を向けた。
「独房に入れておけっ。鉄砲にしてな」
「はっ」
 敬礼する警官たちには目もくれず、取り調べ官は大股で部屋を後にした。

「あたたたた……もうっ、あちこちアザ出来てるんじゃない?」
 うつぶせに床に転がったまま、紅緒がぶちぶちと文句をたれる。左右の手は背中側に曲げられているのだが、右手は肩の上側から、左手は脇の下の側から回されていて背中で両手の指先同士が触れあわされている。両手首を短い縄で繋がれているためにどんなにもがいても逃れられないのはもちろん、少し身体を動かすだけで腕がねじれ、肩の辺りに激痛が走るのだ。
 床の上には、浅い皿に入れられたスープとパンが置かれている。両手が使えない以上、犬のように這いつくばって直接口をつけて食べるしかない。お前は人間ではなく動物なのだという扱いで、被疑者に屈辱を与えて抵抗心を削いでしまうのが目的なのだ。
「くっそー、許せんっ。ここから出たら絶対訴えてやるっ」
 もっとも、紅緒の場合は逆効果だったかもしれない。闘志を燃やしつつ、彼女は猛然と食事を始めた。

「こらーっ、放せぇっ」
 大きな水車の曲面にそって身体を縛りつけられた紅緒が身体をじたばたと暴れさせる。水車の下には水が張られており、水車の一部は水面下に沈んでいた。
「はっはっは、どうだ? 恐いだろう? さぁ、意地を張らずに仲間のことを白状するのだな」
 取り調べ官の言葉に、紅緒がべぇっと舌を出す。こめかみに青筋を浮かべた取り調べ官が警官に向かって合図を送った。警官がスイッチを入れると、電気仕掛けの水車がゆっくりと動き出す。
「うわっ、うわわっ、やめてーーっ」
 足首、脛、腿と冷たい水に沈んでいく。顔を左右に振って紅緒が暴れるが、もちろん何の役にも立たない。
「やだっ、冷たいっ。ちょっと、やめてってばーっ」
 腰から腹、胸へと水に沈んでいく。目の前に波立つ水面が迫り、紅緒の表情に怯えの色が浮かんだ。
「うぶっ、ごぼごぼごぼっ」
 口と鼻が水面下に沈み、目を白黒させて紅緒が身体をのたうたせる。顔が完全に水面下に沈むとごぼごぼいう気泡が激しく沸きあがった。
 水車の回転に従って、紅緒の足が水面上に出てくる。びっしょりと水に濡れた服が肌に張りつき、ぽたぽたと水滴を滴らしている。更に腹や胸が顔を覗かせ、顔が水から出る。
「うぇ、げほげほげほっ」
 口から水を吐き出し、胸を激しく上下させて紅緒が咳込む。更に水車が回転を続け、紅緒の姿勢が最初と同じになったところでいったんスイッチが切られた。
「どうだ? まだ気は変わらんか?」
「げほっ。ひ、人を殺す気!?」
「まだ元気がありあまっているようだな……続けろっ」
 取り調べ官の命令に、再びスイッチが入れられ、水車が回転を始める。水の中に紅緒の身体が沈み、痙攣するように激しく身体が震える。彼女の動きが水面を激しく波立たせた。
「う、ぇ……けほっ」
 上下逆さまの紅緒が、口を半開きにして呻く。半分意識を失っているらしい。それを見た取り調べ官が椅子から立ちあがり、紅緒の側へと歩み寄ると竹刀の先端でどんっと彼女の腹を突いた。ごぼっと口から水を吐き出し、半分うつろになりかけていた瞳に光が戻る。
「さあ、いいかげん白状しろ! 吐け、吐くのだぁっ」
「吐け、吐けって……お酒も飲んでないのに吐けるわけないでしょ」
「その『吐く』じゃな~いっ」
 じだんだを踏んで悔しがる取り調べ官からふんっと紅緒は顔を背けた。かっとなったように取り調べ官が竹刀を横薙ぎに振るい、ばしっという音が響いて紅緒の頬が赤くなる。
「きゃっ。ひっどぉい。女の子の顔を殴るなんて、男の風上にも置けないような奴ね!」
「ええい、貴様、まだ言うかっ」
「と、取り調べ官殿、落ち着いてっ。下手に傷を付けると、後で責任問題になりますよ!?」
 再び竹刀を振り上げた取り調べ官を、警官が慌てて制止する。ふーっ、ふーっと荒い息を吐く取り調べ官へと、その警官は何か耳うちした。不機嫌そうに顔をしかめていた取り調べ官が、その言葉を聞くうちににやりと笑いを浮かべ始めた。
「うむ……なるほどな。よし、そうしよう」

「こら~、朝ご飯も昼ご飯も持ってこないってのはどういうことよ~っ! 私を飢え死にさせる気か~!?」
 独房の中で紅緒が大声で叫ぶ。両手は相変わらず鉄砲の型に縛られていて、冷たい剥き出しの床の上にうつぶせに転がった状態だ。
「誰か返事をしろ~~っ。こらぁ~~っ」
 どんなにわめいても、人がやってくる気配はない。ひとしきり騒ぐとふてくされたように紅緒は目を閉じた。すぐにすぅすぅという寝息が響き始める。

「……おなか、空いた……」
 ぽつり、と、紅緒が力なく呟く。もう、丸三日近く何も食べていない。寝ている間に運ばれたのか、独房の隅には水の入った深皿が置かれているから水だけは飲めるのだが。水では喉の渇きを癒すことは出来ても腹の足しにはなってくれない。独房の中にトイレはなく、縛られた状態で放置されているから小便は垂れ流しだ。袴にしみ込み、嫌な臭気を放っている。
 と、彼女の嗅覚に食べものの匂いが触れた。ばっとそちらへと顔を向ける。
「ご飯っ!」
「くっくっく、どうした? 随分と参ってるようじゃないか」
 取り調べ官が、にやにやと笑いながら紅緒を見下ろす。きゅうっと、可愛い音を紅緒のおなかが立てた。膝を使って這いずり、紅緒が鉄格子に近づく。
「ご飯……! 頂戴っ」
「仲間のことを白状しろ。そうすれば、腹いっぱい食わせてやる」
「あぁん、だからっ、私は何にも知らないのよ! 本当だってば!」
 身をもみ、紅緒がそう訴える。ふんっと取り調べ官は鼻を鳴らした。
「強情な奴だな。なら、もうしばらくそうしてることだな!」
「ああっ、ご飯~~」
 かつかつと靴音を立てて取り調べ官が去っていく。遠ざかっていく食べ物の匂いに、紅緒が悲痛な悲鳴を上げた。匂いをかいだせいか、ますます飢えが激しくなったような気がする。
「ご飯……食べたい……」
 がっくりとつっぷし、紅緒が力なく呟いた。

 翌日、半分かびたようなパンが一欠け、紅緒に与えられた。空腹に耐えきれず、貪るようにそのパンをかじる紅緒。あっという間にパンは彼女の腹の中へと消え、後にはかえって酷くなった空腹感だけが残る。ごくごくと、皿に直接口を付けて水を飲み、少しでも空腹を紛らわそうとするのだがあまり効果はない。すっかりとやつれ、もう大声で叫ぶ体力も残されていない。
 しばらくすると、ぐるぐると腹が鳴り始めた。下腹部から広がる痛みに顔をしかめ、紅緒がもぞもぞと身体を動かす。冷え込む独房の中、水ばかり飲んでいたせいで胃が弱っていたところに、かびの生えたパンを食べたせいで下痢でも起こしたらしい。
「ね、ねぇ……おトイレ、行かせてよ……ねぇってば」
 かすれた声で紅緒が訴える。小便を垂れ流すというのもかなりの屈辱だが、大便を垂れ流すというのはそれにも数倍する恥辱だ。懸命に便意を押さえ、か細い声で訴えを続ける。
 だが、結局その訴えが誰かの耳に届くことはなかった。しかめられた紅緒の顔に絶望の表情が浮かび、小さな排便の音が響く。水っぽい大便が袴を汚し、むっとする臭気が周囲に漂った。
 ひっく、ひっくという、すすり泣く声が小さく独房の中に響いた。

 仲間たちの働きかけによって彼女の無罪が証明され、釈放されたのは、それから一週間近くが過ぎてからだった。すっかりとやつれ、明るさを失った彼女の姿に仲間たちは一様に絶句したという……。
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