星野真弓は思いもよらない状況の変化にただ戸惑っていた。真弓があの恐ろしい、今
にも心が挫けそうな拷問に失神し目覚めた時、彼女は全身の傷が、あのおぞましくも残
酷な拷問で全身に刻みつけられていた傷が全て癒えていることを知る。そればかりでは
ない。彼女の居るのは広さは十畳ばかりもあるだろうか、いかにも居心地の良さそうな、
簡素ながらも美しい部屋だったのだ。やはりここも地下なのか窓は一つもないが、それ
を補うためだろう、壁にはフランス印象派の大きな風景画が掛けられ壁紙には淡いピン
クの品の良いものが使われている。床にはふかふかのアラビアの絨毯さえ敷き詰められ、
照明もあのおどろおどろしい松明や篝火ではなくちゃんと電灯が使われ、しかもまぶし
すぎないよう全て間接照明になっている気の使いようだ。机やベッド、小物入れ、本棚
などの家具も吟味されたものらしくセンスもよいし使い心地もよい上、机の上には果物
を盛り合わせた鉢や飲み物を入れた水差しまでも置かれている。しかも本棚には真弓の
好きな荻原朔太郎や中勘助、芥川龍之介などの全集はもちろん、高価なモネやセザンヌ
の天然色の作品集などが揃えられている。また蓄音機も有り、好きな音楽家のレコード
まで備え付けられ、あたかもその部屋は真弓のために作られたようだ。
しかも真弓はもう裸ではなかった。真弓は一枚の純白の布を、その初々しい姿態を包
むように身にまとっていた。その布は無数の襞をなして彼女の全身を快く包み、肩の処
で形良く結ばれ、そうそれはギリシャ神話の女神そのものの姿だった。それは絵のよう
に美しい真弓に本当に良く似合っていた。それはこの美少女をさらに美しく、さらに高
貴に気高く見せていた。
真弓は戸惑いながらベッドから降りしばらく部屋の中をうろついていたが、よもやと
思いながらたった一つのドアの処に歩み寄る。そしてそのノブに手を伸ばそうとした瞬
間、ドアは音もなく向こうから開けられる。驚く真弓の前に立っていたのは天使だった。
いや本当は天使の扮装をした娘にすぎないのだが、可憐な少女が背中に翼を付け、白い
短い衣を身に着けている様は天使そのものだった。そしてその天使は黙ったまま、そし
てまさに天使のように微笑みながら真弓に一通の手紙を差し出す。真弓はどきまきしな
がらその手紙を受け取ると、その天使は小さく微笑んで素早くドアを閉める。「あなた
は誰?ここはどこ?私は…私はどうなるの?」幾つもの問いがのどもとまで出かかって
いたがそれを口に出す間さえもない。真弓は仕方なく椅子に腰を下ろし、その手紙を読
み始めるが、読み進めるうち真弓の目から次々に美しい涙が溢れ出す。その手紙は大曾
根竜次からだった。
「ああ真弓さん、僕は誤った。誤ったのだ。僕は今まで何という汚濁に塗れた人生を
送ってきたことか、それを思うと慙愧の念でのた打ち回りたくなる。僕は君の恋人の有
明友乃助君をはじめ、如何に多くの無辜の生命を虫けらのように奪ってきたことか。如
何に汚い手を使って唾棄すべき財をなしてきたことか。ああ、僕は地獄に落ちるべき人
間なのだ。いかに慈悲深き神であっても僕を許しはしないだろう。それを僕に気づかせ
てくれたのは真弓さん、あなたなのだ。僕の加える様々な責め苦にも、普通の女なら目
にしただけでおぞけを振るい何でも言うこと聞く拷問具に掛けられても決して屈しよう
としなかったあなたの気高さなのだ。その雄々しいまでの清らかさなのだ。そんなあな
たに僕は何と言うことをしたのだろう。無論、許してくれなどと言うつもりはない。ど
んなに謝ったとしても、あなたが恋人の友乃助を殺した僕を許す訳などないことは、愚
かな僕も良く分かっている。せめてもの罪滅ぼしにあなたを父君や辻堂老人とともにす
ぐさま解放すべきである事も分かっている。警察に自首すべきことも分かっている。し
かし僕は法廷であれ、警察であれあなたに顔をあわせる勇気がない。それに惰弱にもや
はり僕は警察が怖い。断罪されることが怖い。そこでどこか遠くの、そう決してあなた
に会い見ることのない世界の片隅の国に渡って、せめてもの罪滅ぼしに愛と慈善に満ち
た生活を送るつもりだ。それまでの時間、不自由ながらもう少しこの大暗室に留まって
いてくれたまえ。無論適当な時期にあなたを父君や辻堂老人とともに自由にするよう、
残ったものには良く言って有るから何の不安もない。僕はあなたに許してくれとは言わ
ない。しかし責めてこの愚かな男を哀れんでくれたまえ。」
真弓はこの手紙を繰り返し繰り返し読み返してみた。そしてその度に美しい涙をその
涙に劣らず美しい目から溢れさせていた。「竜次さん、私はあなたを、あなたを許しま
す。」そしてしゃくりあげながら心清らかな美少女はその手紙を胸の処に押し当たまま、
小さく呟いていた。
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