第四話 暗黒


「う、くぅ……」
 ぐったりと、ベットの上にうつぶせに転がりながら、マヤは小さな呻き声を上げた。三日前に受けた、音響の拷問。あれ以来、耳鳴りが止んでくれない。普段はほんの小さなものなのだが、何かの拍子に激しくなることがあり、そうなるとめまいが同時に起こって身動きが取れなくなるのだ。
「く、うぅ……」
 全身に汗が浮かぶのが分かる。胸の奥から吐き気が込み上げてくる。ぎゅっとシーツを掴み、懸命に彼女は歯を食い縛って耐えた。実際、耳鳴りが収まるまでただひたすら耐える以外にないのだ。
「具合はどうですか?」
 ぼうようとした男の問いが、不意に背後からかけられた。びくっと僅かに身体を震わせ、マヤが首をひねって声の主の方を見る。いつもと変わらぬ白衣をまとった青年、有栖川シンだ。激しい耳鳴りのせいで、彼が扉を開けた音に気付けなかったらしい。
「最悪、よ……」
 彼のことを睨みつけながら、精一杯不機嫌そうな声を出す。正直な話、声を出すのも辛いのだが。そんな彼女の精一杯の努力にも、まるで関心を持っていないように有栖川は小さく頷いた。
「そうですか。まぁ、自業自得、ですね。意地を張っているのは、あなたなんですから」
「……おしゃべりをしに、来たの?」
 激しかった耳鳴りは、僅かずつだが収まりつつある。表情を歪めながらもマヤはベットの上に上体を起こすと正面から有栖川の顔を見つめた。相変わらずの無表情で、有栖川が首を左右に振る。
「僕もそれほど暇ではありませんから。これから尋問を始めるから連れてこいと言われたもので」
「尋問? 拷問の間違いじゃないの?」
「どちらでも、大差はありません。一人で立てますか? それとも、抱えていかないと無理ですか?」
 マヤの嫌みを、さらりと流すと有栖川がそう問いかける。ぎゅっと下唇を噛むとマヤはベットから立ち上がった。
「自分で歩けるわ。こんなの、たいしたこと、ないもの」
「自己満足が出来るのなら、意地を張ることも無意味とは言いきれないんでしょうね……。
 別に、あなたがどうしようがどうなろうが僕には関係のないことですが」
 本当にどうでもよさそうな口調でそう言うと、有栖川はさっさとマヤに背を向けて歩き始めた。ぶぜんとした表情を浮かべながらも、マヤはおとなしくその後に従った。廊下では二人の警備員が銃を構えているのだから、逃亡のしようがない。彼を人質に、というのも、冷徹なコーポの人間には無意味だろう。
(最初から、逃げられるだなんて、思ってないけど)
 自分に残された道は、ただひたすらに耐えて耐えて耐え抜くことだけ。最終的に、死ぬしかないと分かっている道だけだ。
 若さに似合わない、そんな諦めの心境に、ごく自然に彼女はなっていた。

「いいかげんしぶといねぇ、マヤちゃん。いいかげん素直になったらどうだい?」
 軽い口調で東城がそう言う。いつものように椅子に拘束された状態で、マヤは無言で彼のことを睨み返した。微かな抵抗、という奴だ。
「おやおや、だんまりかい。ま、意地を張るのもいいがね、痛い目を見るだけ損だと思うんだけどなぁ」
「……」
「それとも、マヤちゃんは痛くされるのが好きなのかな? そういう奴も」
「くだらないおしゃべりはその辺にしておいたらどうだ? 私たちも、暇ではないのでな」
 楽しそうな東城の言葉を、冷ややかに有栖川樹璃が遮った。一瞬むっとしたような表情を見せ、東城が彼女のことを睨む。平然とその視線を受けとめながら、彼女はもたれていた壁から背を離した。いつもと同じ白衣姿だが、左の手首の辺りに幅の広い黒のベルトを巻いている。
「耳の調子はどうだ? 鼓膜には影響はないはずだが、多少は後遺症が残っていると思うんだが」
「……耳鳴りが、少し」
「ふ、む。まぁ、その程度はしかたあるまい。あと二、三日もすれば消えるだろうしな。
 ただ、今日の拷問は、取り返しがつかない。素直になったほうが、得だと私も思うが?」
 脅す風でもなく、淡々とした口調で樹璃がそう言い、僅かにマヤが身体を強張らせる。先日、彼女によって脳内に針を埋め込まれた時の痛みと恐怖を思い出したせいかもしれない。それでも、震えを押し隠して口を開く。
「覚悟は、出来てるわ」
「だが……」
「おいおい、人には暇じゃないとか言っておきながら、自分は余計な時間を使うのかよ? 本人が覚悟は出来てるって言ってるんだ、さっさと始めようぜ」
 さっき言葉を遮られた意趣返しのつもりか、今度は東城が樹璃の言葉を遮る。ちらりとやはり不機嫌そうな視線を東城に向けると、樹璃は小さく溜息をついた。
「そう、だな。シン!」
 姉からの呼び掛けに、有栖川が椅子の横のボタンを押す。ぐぅんと背もたれの部分が後ろに倒れ、マヤの身体が仰向けになった。背もたれから延びた、先端にフックの付いた二本の紐を有栖川が手に取る。フックといっても、先端は平べったくなっていて鋭さはない。材質も、金属ではなく柔らかいプラスチックのようだ。
 有栖川が、左手でマヤの右目の上のまつげをつまんだ。そのまま上に引っ張り上げ、眼球とまぶたの隙間にフックを引っ掻ける。端がちぎれるのではないかと思うほど強くまぶたを引かれ、マヤの口から小さな呻き声が漏れた。まぶたの内側に入りこんだフックが眼球と触れ合い、激しく痛む。左目のまぶたにも同じようにフックが掛けられた。ポロポロと涙をこぼしつつ、マヤが引きつった呻きを上げる。僅かでも眼球を動かすと、フックにこすれて激しい痛みが走るのだ。たちまちのうちに白目の部分が充血し、真っ赤になる。
「うっ、くぅっ……」
 苦しげに身体をよじるマヤの首の後ろに、有栖川が無表情のまま紐を通した。その両端には、今彼女の両まぶたを吊り上げているのと同じフックが付いている。ヒクヒクと痙攣するように動く彼女の下のまぶたを指でまくりあげ、有栖川はフックを引っ掻けた。上下のまぶたをフックによって引っ張られ、これ以上ないというほど大きく目を見開いた形になる。後から後から涙があふれるが、大きくまぶたを開いた今の状態では涙はすぐにこぼれ落ちてしまう。さして時間もたっていないのに、もう目の表面が乾き、痛み始めた。
「これから、この針を眼球に突き刺す」
「!」
 淡々とした口調で樹璃がそう告げ、びくっとマヤが身体を強張らせる。樹璃が手にしているのは縫い物に使うようなごく普通の針だが、人間の身体の中で一番痛みに敏感な部分は目だ。どれほどの痛みを味わうのか、想像もつかない。
「や、やめて……」
「止めてやるとも。素直に質問に答えてくれさえすればな」
 すいっと、マヤの目の前で針を横に動かしながら、樹璃がそう言った。大粒の汗が顔のあちこちに浮かび、流れる。かちかちと、歯が鳴った。
「どうだ?」
「しゃべったりは、しない。絶対に……!」
「そう、か」
 マヤの言葉に、軽く溜息をつくと樹璃が針の先端を無造作に彼女の左目に刺しこんだ。びくんっと、拘束されたマヤの身体が大きく跳ねる。
「きゃああああああっ」
 視界が赤く染まる。目も眩むような激痛に、何も考えられずにマヤは悲鳴を上げ続けた。針の突き刺さった部分から、どろりと白濁した液体があふれ出す。
「白目の部分は、損傷しても視覚そのものに影響はないはずだ。物を見るのに必要なのは、レンズである角膜と、フィルムである網膜の二つだからな。黒目の部分を傷つけなければ、失明はしないで済む」
 淡々とした口調でそう言いながら、樹璃は左手首に巻いたバンドから新しい針を引き抜いた。針を突きたてられ、ふるふると震えているマヤの左目へとその針の先端をむける。
「ひ、や……やめて、やめてぇっ」
 マヤが首を左右に振って悲鳴を上げる。だが、椅子から延びたベルトがまぶたを引き上げているから、動かせる範囲はごく狭い。ほとんど逃れようもなく針の先端が眼球の表面に触れる。
「い、痛っ。嫌あぁぁっ」
 痛みから逃れようと、眼球が無意識に動く。だが、かえって針の先端が眼球の表面を引っ掻き、細かい傷を作るだけだ。
「い、ぁ、きゃあああああっ」
 つぷっと、針の先端が眼球にめり込む。悲鳴を上げてびくんびくんと身体を跳ねさせるマヤ。黒目の左右に突きたてられた針が、電灯の光を反射して不気味に光る。
 赤く染まった視界の中に、ぼんやりとした黒い影が二本見える。眼球の中に入りこんだ針の影だ、と、そう気付いてマヤの歯がかちかちと鳴った。
「くくく、どうだい? マヤちゃん。素直になる気になったかい?」
「くぅぅっ……」
 後から後からあふれ出す涙に頬を染め、悔しそうにマヤが呻く。眼球の中には血管はないから、出血量はさほどでもない。そのせいで凄惨さはそれほどでもないが、眼球に二本の針を突きたてられた姿はかなりの哀れさを見せていた。
「素直にならないなら、もう一個の目にも針を刺すことになるが」
 ゆっくりと、反対側に回りこみながら樹璃がそう言う。その手の中の三本目の針を目で追いつつ、マヤが小さく呻いた。左目の痛みは少しも収まる気配がなく、むしろ時間と共にその強さを増しているような気さえする。
「……どうする?」
「話すことなんて、何もないわ」
 微かに震えるマヤの返事に、樹璃が溜息をついた。ごく無造作に針の先端を眼球に当て、押し込む。拘束された身体を弓なりにのけぞらせ、マヤが絶叫を上げた。
「きゃあああああっ。あ、あ、あ、いやあああああああああっ」
 視界が暗くぼやける。激しい痛みに、何も考えられずにただひたすらに彼女は悲鳴を上げ続けた。彼女が身体を震わせるたびに、がたがたと椅子が音を立てる。
「針は全部で十本用意してある。悪いことは言わん、素直になれ」
 マヤの耳元に顔を近づけ、囁くように樹璃がそう告げる。大きく目を見開き、涙を触れさせながらマヤが首を左右に振った。椅子に固定された上まぶたがその動きに引っ張られ、目尻の辺りが軽く裂けて血を滴らせる。文字通りの血の涙を流し身悶えるマヤ。
「痛い……痛、いぃ……きゃあああああっ」
 身もだえるマヤの右目に、四本目の針が突きたてられた。これで左右の目に二本ずつの針が刺さったことになる。びくんびくんと身体を跳ねさせ、悲鳴を上げるマヤ。
「やめてっ、やめてぇっ! 嫌ぁぁっ!!」
「やめてほしけりゃ、質問に答えな。そうすりゃ、きちんと治療もしてやるよ」
「嫌、嫌、嫌ぁっ! きゃあああああっ」
 東城の言葉に首を振るマヤ。軽く肩をすくめると東城は樹璃を促すように首をしゃくった。僅かにためらうような間を置いて、樹璃が五本目を左目に、六本目を右目にそれぞれぷすぷすっと突きたてた。
「あっ、ああっ。アアアアアアアアアッ!」
 悲鳴を上げ、のたうつマヤの身体を有栖川が押さえつけ、樹璃が手早く針を眼球へと突きたてる。黒目の上下左右を囲むような形で針を突きたてられ、マヤの口から途切れることのない悲鳴があふれ出す。涙に混じって、白濁した液体がこぼれ彼女の顔を汚した。出血も少ないとはいえ、流石にそれぞれの目に四本の針を突きたてられれば顔の上半分が斑に血で染まる。
「嫌ぁっ、目、目がっ、私の目がぁっ」
 今のマヤには、ほんの微かにものの動く影が見えるだけだ。激しい痛みに、意識が遠退きかける。そんな暗い視界の中で、何かが光を反射するのが何故かはっきりと見えた。
「残る針は二本。これは黒目の部分に付きたてる。今はまだ、治療すれば元どおり見えるようになるが、この二本を使えば完全に失明することになるぞ。まぁ、機械化すればまた視力を取り戻すことも不可能ではないが」
 淡々とした口調で樹璃がそう告げる。ごくり、と、唾をのみ込み、マヤが身体を硬くする。
「は、早く、しなさいよ。こ、恐くなんか、ないんだから……」
「意地を張るな。声が震えているぞ?」
 樹璃の言葉に、マヤが唇を噛んで黙りこむ。樹璃の視線を受けて、東城が軽く肩をすくめた。
「ま、本人がやってくれって言ってるんだ、中止する必要もあるまい」
「……そう、だな」
 溜息とともに、樹璃が針をマヤの右目へと突きたてた。針を突きたてられたマヤがびくんっと大きく身体を震わせ、数度ぱくぱくと口を開閉させる。あまりの痛みの大きさに、悲鳴すら出てこないらしい。
「--!! ---っ!! ウワアアアアアアアアッ」
 少しの間を置いて、絶叫しながら激しくマヤが身体をのたうたせた。がたがたと椅子が音をたて、椅子とベルトで繋がれていた上まぶたが裂ける。
「ひあっ、あっ、あああああっ! アアアアアアアアアッ!」
 暗くなった視界の中で、無数の光が弾ける。誰かが何かをしゃべっているらしいが、彼女の耳には入っていない。ただひたすらに悲鳴をあげ、身体を震わせる。痛みだけに脳裏が塗り潰され、それ以外の感覚は何もない。
 びくんびくんと、もう一度身体を大きく震わせると、マヤの全身から力が抜けた。半開きになった口からはよだれをあふれさせ、完全に失神している。
「ちっ。しぶといな。これでも駄目か」
 言葉の内容とは裏腹に、楽しそうな口調と表情で東城がそう呟いた。
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