第二話 水の地獄

 夜風が遠くから、低い人の呻き声を運んでくる。一人二人のあげるものではない。二十人以上のキリシタンたちのあげる悲痛な呻き声だ。
「かないませんなぁ……こちらが責められているような気分です」
 うそさむそうに首をすくめると大神はそうぼやいた。くくくっと笑い、竹中采女は扇子を掌へと打ち付けた。
「毎夜毎夜この声を聞かされれば、気の弱いものならばそれだけで転ぶ。残酷な責めを見せつけることで複数の人間を責める事なく転ばせられるのならば、それはむしろ民のためになろうというもの……」
「はぁ……」
 采女の言葉に、大神は曖昧に頷いた。確かに、彼の言う事は正しい。だが、最近ではむしろ残酷な拷訊を行うことが目的となっているのではないか、と、そう思わされるような責めが増えてきたような気がする。
水磔、と申しましたか……?」
「左様。キリシタンのいうところの逆さ十字……単純に上下さかさまに磔にされるだけでも、長時間に及べば相当の苦痛を与えられる。それに水責めを加えたのが、この責めでな。
 満潮の時に頭が完全に海に沈むように高さを調整しさえすれば、あとは自然が勝手に責めを続行してくれる。手間も掛からず、威圧効果も高い。優秀な責めだとは思わんか?」
 水磔は、逆十字の磔台に人間を固定し、それを海岸に立てるという単純な責めである。だが、満潮ともなれば犠牲者の頭部は完全に海に沈み、波の満ち干きの際に僅かに息がつけるにすぎないという、想像を絶する責めとなる。
 ほんの微かにでも息をつく暇があれば、窒息までは至らない。それゆえに犠牲者は死ぬこともできず、数日から下手をすれば十日以上にわたって苦しみ続けることになる。しかも、その間ずっと海水にさらされているわけで、顔は水死人のように醜く膨れ上がり、昼には塩を吹いて耐え難い痛みを感じさせるという。また、喉の渇きに海水を飲んでしまえば、それは更なる渇きを呼び、地獄の苦しみを与える。
 現在、奉行所からやや離れた海岸には、老若男女を取り混ぜて二十を越えるキリシタンが磔にされている。体力のない老人や子供の中には既に死者も出始めているようだが、確認もせずにそのまま放置されている。ただ朝と晩の二回、転ぶものがいないか問い掛けに行くだけだ。いずれは死体が腐敗し、更に状況を悪化させることになるだろう。
 翌日。近頃では拷問蔵と囁かれている土蔵で、今日も拷訊が行われようとしていた。つい最近捕らえられたばかりのキリシタンが五人ほどきつく後ろ手に戒められて座らされている前に、大きな水槽が置かれている。南蛮渡りの高価なギヤマンを使ったもので、中になみなみと満たされているのは拳大の氷塊が幾つも浮かんだ氷水だ。
 その上に、全身を厳しく縛り上げられた女が逆さに吊られている。拷訊の際にも服は着たままであるのが普通だが、彼女の場合は全裸に剥かれ、幾重にも縄が巻かれていた。半ば以上肉に食い込むほどきつい縛り方で、特に胸の辺りは二重三重に巻かれている。乳房を絞り出すように上下、更に前で交差させるような形だ。
 既に半刻近く逆さに吊られているせいか、時折苦しげに女が顔を歪める。胸を強く圧迫されているせいもあるのだろうが、その息はか細かった。目の下にはくまが浮かび、肌のあちこちに無残な傷跡が刻まれている。
「さて……素直に転んでもらえればこちらの手間も省けるのだがな、お咲」
 面白くもなさそうな表情と口調で采女がそう呼び掛ける。無言のまま自分の方を睨み付ける女に、采女は薄く笑って扇子を掌に叩き付けた。
 パシッという軽い音を合図に、下男たちがお咲を吊っていた縄の端を柱から外す。降ろすというよりは落とすといった勢いでお咲の身体が水に沈んだ。下男たちが縄の端を掴むと、ちょうど膝の裏の辺りが水面にくる位置で止まる。
 覚悟は決めていたのだろうが、漬けられたのが下手すれば心臓麻痺を起こしかねない冷水である。悲鳴を上げたのかごぼりと大きな気泡が上がった。豊かな黒髪がゆらゆらと藻のように水の中に広がる。
 身体をくねらせ、気泡を吐き出しながらお咲が悶える。その動きがやや鈍くなったところで下男たちが縄を引き、お咲の身体を水から引き上げた。げほげほと数度咳き込み、お咲が口から水を吐き出す。全身の皮膚が真っ赤になっている。
「う……うぅ……」
 苦しげに呻きながらお咲が身体をくねらせた。くくっと低く笑いながら采女が彼女に声を掛ける。
「どうだね、麻の縄の味は? それには水を吸って縮むという性質がある。さっきまでよりもずっと苦しくなっただろう?」
「うぅう……うぁ」
「まぁ、転ぶ気になったらいつでもそう言いたまえ。すぐに楽にしてやろう」
 采女の言葉が終わるのを待ち、下男たちが再びお咲の身体を水に漬ける。ぎゅっと目を閉じ、お咲はきつく唇を噛み締めた。肌を責める水の感覚は、冷たいというよりは熱いとか痛いに近い。自分の心臓の鼓動が、妙に大きく聞こえた。
 だが、どんなに頑張ったところで人間は無限に息を止めては居られない。まず手の指が開いたり閉じたりを繰り返し始め、しだいに身体全体が痙攣するように震え始める。キーンという耳鳴りが徐々に大きさを増し、鼓動の音を上回る。
 ついに我慢の限界に達し、お咲が大きな気泡を吐き出した。息を吐けば、次は吸わなければならない。限界まで息を止めていた人間には、当然、息を吸わずに我慢しようなどと考えることは不可能だ。冷たい水を一息に飲み込み、大きく目を見開いてお咲が身体を震わせる。ばしゃばしゃと水面が波立った。
 下男たちがお咲を水から引き上げる。ポタポタと水を滴らせ、半ば気絶でもしているのかぐったりとしていた。
「大神」
 無造作な采女の呼び掛けに、はっと小さく頷いて大神が棒を手に取る。みぞおちの辺りを棒で突かれ、呻き声と共にお咲が身体を震わせた。目に生気が戻る。
「う……ぁあ」
 がちがちと歯を鳴らし、お咲が震える。まだ冬と言うには早いが、夜ともなればめっきりと冷え込む季節だ。単に裸で放置されるだけでも寒さが苦痛となる。ましてや氷水に漬けられればその苦痛は倍増だ。
「転ぶか?」
 大神が棒の先でお咲の胸を突きながらそう問いかける。きつく縛りあげられ、息をするだけでも辛い状況におかれながらもお咲は首を左右に振った。
 大神が諦めたような表情になって采女の方を振り返る。ぱしっと采女が扇子を掌にうちつけ、下男たちが縄を緩めた。今度は先程のように全身を漬けるのではなく、口の辺りが水面にくる位置で止めている。
「おぶ、ごぼっ」
 僅かに首をもちあげれば口が水の上に出る。なまじそういう希望があるが故に必死になって身体を屈め、息をしようとするお咲。だが、下男たちが微妙に縄の位置を調整するせいで口の中に入ってくるのは空気が半分、水が半分といった感じだった。
 身体を揺らし、苦悶するお咲。しばらく彼女がそうやって苦しむさまを楽しむと、采女は一旦縄を引き上げさせた。ヒューヒューと掠れた息をつくお咲に、大神がいたましそうな視線を向ける。
 薄く笑いながら、采女が下男たちに合図を送る。どぼんと勢いよくお咲の身体が水に沈んだ。今回は全身である。ぎゅっと目を閉じ、お咲は苦しさと冷たさに耐えている。白い肌は真っ赤に染まり、食いしばった唇の端からは細かい気泡が昇っていった。
 やがて、息を止めていられる限界に達っし、一際大きな気泡がお咲の口から吐き出される。全身に巻かれた麻の縄は肉に食い込み、動きを封じる。僅かでも身体を動かせば激痛が走るのだが、それでも苦悶に身体を震わせずにはいられない。悲鳴は気泡となって消え、浮かんだ涙も判別できない。
 お咲の動きが鈍くなり、止まる。下男が水から引き上げ、大神が棒で叩いて意識を覚醒させる。虚ろな視線をさまよわせながらお咲は数度激しく咳込んだ。
「転べ、転べば楽になれるのだぞ」
 大神の言葉に、お咲が首を振る。采女が合図を送り、再びお咲が水に沈んだ。

(うぁ・・・く、苦、し、い・・・)
 異常に大きく聞こえる自分の心臓の音。そして、それをも圧倒して響く耳鳴り。耐え切れずに息を吐けば、次の瞬間には肺の中にまで冷水が侵入して責めたてる。この切られるような痛みに比べれば、竹の鞭で打たれる痛みなど大したことではないような気さえしてくる。
「ごぼっ、ごぼごぼごぼごぼごぼ・・・」
 足首を締め上げられるような感覚と共に身体が持ちあがった。水ではなく新鮮な空気が口から入り込んでくる。
「・・・、・・・」
 棒を持った侍が何かを言いながら身体を突く。僅かに痛みが走ったが、全身を締めあげる縄の痛みや身を切るような冷気、そして息が出来ないという苦しさにくらべればどうということもない。激しい耳鳴りのせいで、相手の言葉も聞き取れなかった。
 ふっという浮遊感とともに、再び水の中に身体が落ちる。時間の感覚がなくなる。痛いとも冷たいとも感じなくなってくる。あるのはただ、気の遠くなるような苦しさだけだ。手や足の指が痺れているような感覚が最初の頃はあったが、今はもう、ない。

「うぅぅぁ」
 だらだらと口から水を吐きながらお咲が呻く。もう既に何度彼女を氷水に漬けたのか、憶えているものは誰もいなかった。最初の頃は激しかった苦悶の動きも、今ではもうほんの微かなものになってしまっている。縄の締めつけがきつくなったというのももちろんあるだろうが、それ以上に体力の消耗が激しい。
「あ、つ・・・い。暑・・・い」
 焦点の定まらない虚ろな目をしたお咲が、掠れた声で呟く。僅かに首を傾げた大神が采女の方を振り返った。
「暑い? 妙なことを・・・」
「別におかしなことでもない。凍死する寸前、人はとてつもなく暑いと感じるそうだ。一応、次を最後にしておくとするか」
「はっ」
 こともなげにそう言われ、大神は頷いた。幾度となく氷水に漬けられ、凍死寸前まで弱った女に責めを加えては死んでしまう可能性が高くなる。だが、それでも別に構わない、ということなのだろう。転ばねば、いずれ殺すしかないのだから。
 ざぶんと、お咲の身体が水中に沈む。ほとんど苦悶の動きも見せず、お咲はぐったりとしていた。ただ、髪だけがゆらゆらと水中に広がる。
「・・・駄目ですかな」
 大神がそう呟き、下男がお咲を水から引きあげた。台の上に登って大神がお咲の身体を抱くようにして地面へと下した。
「・・・脈は、ないようですな」
「仮死状態かもしれんな。人間を冷水に漬けるとやがては息が絶え、心臓も止ってしまう。だが、場合によっては他の人間が抱いて暖めることで蘇えることもあると書物で読んだことがある。
 お前たち、誰か試してはみぬか?」
 ひきすえられたキリシタンたちに采女が意地の悪い笑みとともにそう言う。無言のまま答えないキリシタンたちに、采女は低く笑った。
「まぁ、死体を抱く気にはならんか。それにこの女も蘇えったところですぐにまた死ぬ運命。このままハライソとやらに行った方が幸せかもしれんな」
 しだいに大きくなる采女の笑いに、キリシタンたちも大神もうそさむそうに首をすくめた。
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All writen by 香月